鹿児島市には、時代と共に生まれ、そして消えていった隧道(トンネル)が複数あります。
今回紹介するのはその中の一つ、かつて鹿児島市の伊敷地区 七窪に存在した七窪隧道です。
七窪隧道の概要
- 所在地:鹿児島県鹿児島市 伊敷台七丁目
- 竣工年月:詳細不明(1947以降~1962年頃と推定)
- 延長:詳細不明。推定約60~70m
- 幅員:詳細不明。
- 現況:道路のオープンカット化に伴い消失。現地に扁額のみ現存
- 備考:付近に車の停められる場所として明ヶ窪水汲み場があります。ただし長時間駐車は水汲み場利用者の迷惑となりますのでお控えください(※大重谷水汲み場ではありません)
七窪隧道の歴史
七窪隧道は、山崎川の谷(県道 坂元伊敷線)と七窪方面を結ぶ道路の一部として存在していました。
県道 坂元伊敷線の前身となる県道は昭和19年頃に開通したとされる石碑が旧・伊勢神社参道付近に残っており、七窪隧道は県道開通後に建造されたものと考えるのが自然です。
ただし、明確な資料が見つかっていないためそれ以前に既に利用されていた可能性はあります。

背面には昭和19年12月8日と記されている。
隧道開通後は坂元-伊敷-七窪間の生活交通に貢献しましたが、後に取り壊され現在はその姿を残していません。


新しいトンネルが多いイメージの鹿児島市だけど、昔はこんなところにもトンネルがあったんだね!
でも、家もたくさんあるしとてもトンネルがあったようには見えないかも…?

フッ、甘い甘い。実はこの辺りはトンネルがあった頃と取り壊された後で地形がガラリと変わってしまっているのさ。
次は国土地理院がweb上で公開している航空写真を使って変遷を確認してみよう
航空写真で辿る七窪隧道の変遷
1947年(昭和22年)

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
1947年10月に撮影された航空写真では、まだ七窪隧道の姿は見えません。古地図を確認すると、七窪隧道とほぼ同じルートを辿る古道の峠があった様ですが狭い為か航空写真上では確認できません。一応、目視できない程度の小さな隧道があった可能性も否定はできません。
ひと際目立っている道が現在の県道 坂元伊敷線であり、そこには明ヶ窪隧道という別のトンネルが既に開通している事が確認できます(写真左中央付近)。
1962年(昭和37年)

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
航空写真上で初めて七窪隧道の姿がはっきりと確認できるのは1962年の9月から。
見ての通り、この頃の七窪隧道付近は現在とは違い尾根の一部であった事が分かります。
1981年(昭和56年)

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
1981年に入ると、真新しい法面工事の痕が現れ既に七窪隧道は消失しています。
法面の見た目がまだ新しい事から、この頃七窪隧道がオープンカット(※切通にすること)により消失したと推測されます。明確な資料は見つかっていませんが、時代を考えれば道路改良の為に取り壊されたのでしょう。
また、県道の玉里側では1970年頃から大型住宅地の造成が行われ、玉里団地として現在まで多くの人々が暮らしています。
2005年(平成17年)

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
平成に入ると七窪隧道一帯の地形を形成していた尾根は切り崩され、新たに伊敷台七丁目が造成されました。その事が2001・2005年の航空写真にも明確に残っています。
残念ながら、この時点で七窪隧道の痕跡を示す地形は消失し、現在のような隧道があったとは気付きづらい宅地が広がる事となりました。
七窪隧道の痕跡

伊敷台団地が拡張された事で、トンネルがあった地形そのものが変わってしまっていたのかぁ…なんだか少し寂しい気もするね

開発というのはいつも過去の遺産との決別でもあるからな。だからこそ、消えてしまった開発前の姿を言い伝えていく事が大事なんだ。
そして、七窪隧道は地形こそ失えど様々な痕跡が遺っているんだぜ
道路の改良に伴い姿を消してしまった七窪隧道。その地形すらも宅地化で失ってしまいましたが、現地や文献上にその存在の痕跡は残されています。
現地に遺る隧道の扁額部分

七窪隧道跡地の県道側の茂みの中には、七窪隧道の跡地である事を静かに語る当時の物(と思われる)扁額が置いてあります。このような形でトンネルの痕跡が遺っているのは鹿児島市内では極めて稀であり、貴重な遺産の一つです。
町境
七窪隧道のあった場所は元々、その地形から下伊敷町と隣接する下田町との境目になっていました。
現在は伊敷台七丁目の造成で分かりづらくなっているものの、痕跡として留めています。
資料上の痕跡
七窪隧道の存在そのものに言及した資料は見つかっていませんが、いくつかの資料に痕跡は残されています。
まずは地形図。1960年代の旧版の地形図にははっきりと七窪隧道の姿が描かれ、それ以降の年代の地図ではオープンカットを受け切通となった姿が記されています。こちらは今昔マップなどを利用するとインターネット上で閲覧可能です。
次に昭和46年に刊行された鹿児島市史の第三巻。本文中ではなく、付録の字絵図の下伊敷町のページに七窪隧道の姿が描かれています。こちらも鹿児島市がインターネット上に無料で公開しており誰でも自由に閲覧が可能です。
おわりに
今回、当サイトの最初の記事としてこの七窪隧道をご紹介いたしました。
市街地からも決して遠い場所ではないので、小さな歴史に触れるという意味で訪れてみてはいかがでしょうか。
ただし周辺は住宅地の為、迷惑とならないようご留意ください。また、県道 坂元伊敷線の当区間はよく渋滞する場所でもあるので可能であれば自家用車以外での訪問がお勧めです。

そういえば七窪って地名は焼酎の名前にもなっているんだ。
鹿児島といえば焼酎、そして焼酎といえば良質な水。七窪を筆頭にこの一帯には明ヶ窪、大重谷と名水の湧き出る地が多い。
中でも七窪水源地は鹿児島の水道を支え続けた近代の著名な土木遺産でもあるぜ