旧道。一概に旧道といえど、世には様々な種類のものがあります。
例えば県道などの一部だったものが、線形改良などで部分的に切り離され指定を外れたもの。古くは主要な往来の街道だったものが、近代化によって役割を新しい道に譲ったもの。宅地造成などで本来の行先を失い、別の役割を与えられて残っているもの。
そんな各地に眠る旧道を、歴史的な考証はひとまず脇に置き、実際に歩いてみた記録を写真と共に残すシリーズとして、旧道歩記というのを今回から始めてみようと思います。
シリーズ開始の背景として、膨大な数存在する旧道各々の歴史を深く調査する事は時間的にも旧道自体の史料の少なさ的にも難しく、今回存在の継承自体を優先しようという方向性を定めました。
内容は普段と変わりませんが、歴史的裏付け等ではなく現地情報と考察等が主になりますのでご留意ください。
記念すべき第一回では、霧島市と薩摩郡を結ぶ県道 牧園薩摩線のうち、JR 肥薩線の霧島温泉駅から大隅横川駅の区間に平行して存在する旧道を取り上げていきます。
旧道の概要
実際に歩いた記録の前に、まず旧道の軽い概要をご紹介します。
今回歩く道は県道 牧園薩摩線の直接の旧道にあたり、牧園薩摩線が現在の鹿児島県道50号線に指定されるよりも以前から旧道は主要な道として利用されていました。その為、厳密には県道 牧園薩摩線自体の旧道というよりはその前身の県道 宮之城牧園線の旧道という形になります。
県道 宮之城牧園線の当区間は既存の古道をそのまま県道指定したもので、昭和29年(1954年)に認定されました。
大正時代の頃の地図から既にこの道自体は存在が確認され、霧島温泉駅より南には旧道と一続きで傘取峠という峠があり、西南戦争時代にはその峠一帯が激戦地となった過去もあります。
なお、付近には薩摩街道の一つ大口筋が通っていて、そちらとは横川地域で合流していたようです。

(出典:国土地理院ウェブサイト
※地理院地図より一部を加工し利用)
現道との大きな違いとして、踏切の無い現道に対し旧道はJR 肥薩線と計4回踏切による平面交差を行います。元々現道を整備した目的の一つは平面交差の解消だったのでしょう。
具体的に現道が整備されたのは、航空写真や橋梁の架橋年月から推察するに昭和50年(1975年)代頃。県道は旧道のネックとなっていた肥薩線との交差を回避し、かつ植村地区では住宅地を避けた山側を通りより近代的な道路に生まれ変わりました。
なお当区間以外で前述の笠取峠でも同時期に改良工事が行われていますが、今回は取り上げません。

最近作られる道路というのは、ごく一部の特例を除き踏切を設置しないんだ。
その多くが地下トンネルや陸橋による立体交差になっている。何故だか分かるか?

それは知ってるよ!今の法律では、新たに踏切を作る事が原則禁止されているんだよね。
ちなみに、JR 指宿枕崎線とかには後から特例で設置された踏切もあるみたい
旧道歩記 -霧島温泉駅~植村駅区間-
ここからは実際に旧道を歩いてきた記録となります。
今回、上記地図南側のJR 霧島温泉駅側から調査を開始しました。

梅雨前線による雨天の中、肥薩線の気動車を降りJR 霧島温泉駅を後にします。
霧島温泉駅は元々、当時の鹿児島本線時代に明治41年(1908年)貨物扱専用の牧園駅として新設された駅です。開業翌年には旅客の扱いも始まりました。
その後一時霧島西口駅に改称。現在の霧島温泉駅という名称になったのは平成15年(2003年)の事です。
霧島西口駅時代の名残なのか、駅前の郵便局は霧島西口という局名を遺しています。

現在の肥薩線と日豊本線の一部は、開業当初は鹿児島本線の一部だったんだよ。
当時の軍事的な理由などから、地形の制約が厳しいにもかかわらず、ループやスイッチバック、長い矢嶽隧道を経由する山間部ルートが採択されたんだ
新旧分岐点と南洲翁宿営之跡碑

県道と旧道との新旧分岐点の近く、道路沿いに南洲翁宿営之跡碑が建っています。
西南戦争下の明治10年(1877年)8月、当時既に西郷軍は各地で苦戦を強いられ勝機を失っており、8月中頃には延岡での敗戦を機に西郷 隆盛の解軍令が発せられた事で協力関係にあった各地の隊が新政府軍に降伏。残留した一部の西郷軍は高い士気で可愛岳を突破、そのまま南下しゆくゆくは鹿児島を目指します。
小林を抜け、ここ牧園から笠取峠を越え加治木方面に出ようと考えていた西郷軍。しかし新政府軍も彼らを包囲しており、中でも笠取峠の突破がなかなかできずにいました。
彼らは結局蒲生経由での迂回ルートを採択し鹿児島へと入っていきます。
笠取峠突破を断念する前に、牧園の窪田地区で彼らは宿泊しています。その際に宿泊したのが、その跡地に石碑の立つ地の前田 万兵衛の家だったと云われています。
石碑は旧道が現役であった頃からこの地にあり、碑文は当時陸軍中将によるものです。

石碑のすぐ先で県道と旧道が分岐。分かりやすい新旧分岐点です。
県道が山手に登っていくのに対し、旧道は並行する天降川の方へ下っていきます。
堂山地区の旧道

旧道に入ると、まずJR 肥薩線と堂山第2踏切で平面交差します。
肥薩線の隼人~吉松間の運行本数は上下線合わせて一日約23本ほど。一時間に一本あるかないかといった設定になっています。吉松より先、人吉方面は数年前の大水害により被災し不通。

基本的にこの旧道は、肥薩線と天降川、県道のそれぞれの間をうねうねと行き来する形で存在していました。写真右の草草している築堤が肥薩線、左の川が天降川です。
堂山地域を抜ける区間では天降川と肥薩線の間を通っていきます。この辺りの天降川は当時金山川とも呼ばれ、その名の通り源流域の山ケ野地区には島津の管理する山ヶ野金山がありました。

川沿いをしばらく進んでいくと、落水田踏切へと登っていく脇道と分岐。
旧道が現役であった頃からの分岐点で、落水田踏切から先の脇道は有村地区を経由して古屋志地区へと至ります。

分岐のすぐ先で旧道は有村川を渡ります。
交差部に架かっているのは境橋というコンクリート製の桁橋。地図で見ると、当時の牧園村と横川村の境界に位置していたように見えます。
現在の橋自体は昭和36年(1961年)に架け直されたもので、それ以前がどのような橋だったのかは定かではありません。

境橋以降いきなり舗装が真新しくなります。どうやらこの近くに牧園横川クリーンステーションというゴミ収集所があり、旧道はそこへのアクセス路として利用されているようでした。
写真の場所は実は道の分岐点でもあります。廃道となって久しく分かりづらいのですが、古くは左の畑脇の茂みを通り天降川を橋で渡る脇道がありました。現在はその橋も消失し現存しません。

山林区間を抜ける中、ふと山手を見ると写真のような石組みがあるのを発見。
地図を確認すればこの上は肥薩線が通っていました。おそらく肥薩線に設けられた暗渠のうち一つ。よくよく見ればこの付近だけ土壁ではなく石積みの土留工が広がっていました。
肥薩線には開業当初からの貴重な土木遺産が多数遺されていて、この暗渠もまた開業当初からの物では無いかと思います。

明かり区間で肥薩線と合流。
肥薩線と水路との交差部があり、廃レールを使用した短いガーダ橋が架かっていました。
天降川は変わらず進行方向左側を流れていますが、既に川床まで10m以上の高低差があります。

松崎踏切で線路を渡り、今度は肥薩線と県道の間を進む事に。
踏切付近にはいくつかの小さな谷が形成されていて、旧道と肥薩線にはそれを分断する形で築堤を作った形跡が確認されました。
谷を横断すれば隣接する尾根も越える事になりますが、その辺りは深めの切通を掘って対応したようです。肥薩線の崖側には長く高い垂直な法面がそびえています。

坂を登り終えたあたりで県道と再会。県道の交差点標識がカオスなブランチ状になっています。
県道側には牧園横川クリーンステーションへの入り口を示す看板も立っていて、どうやらゴミ収集所へはこちらから入るのが正規ルートの様子。
旧道は県道と一瞬だけ合流したあと、再び分岐し万膳川の少し上流側を旧橋で渡っていきます。
万膳川付近の旧道

万膳川の付近では、線路に並行し進む県道に対し旧道は上流側へ迂回するルートを通ります。
旧道の脇には横川温泉が営業。小さく趣ある建屋が特徴です。
脇を通った際に、排水からもくもくと湯気が立っていました。

旧道との交差部に架かっているのが、コンクリート桁橋の旧・万膳橋です。
現在の橋は昭和32年(1957年)に架け直されたもの。先ほどの境橋よりも数年前の竣工です。
橋の袂には昭和30~38年当時の鹿児島県知事、寺園 勝志による改修記念碑が建っていました。現在の橋は県道 宮之城牧園線の改修の一環として架け直されたのでしょう。
なお、県道に架かっている方の万膳橋はより分厚いコンクリート桁橋です。

旧橋の先で再度県道と交差。すぐ近くには肥薩線の植村駅があります。
ここで踏切へと直進するのが旧道。
なお写真をよく見れば分かるのですが、踏切に向かわず右折する方向にも旧道の跡。この交差点には旧・万膳橋へと曲がってゆく旧道と、踏切へと直進する旧道の二つが存在しています。
先ほどまでの堂山地区や万膳橋の旧道とは異なり、この先の区間は昭和50年代に入るより以前に旧道となった為です。詳細な切り替え時期は不明ですが、植村駅が開業した昭和32年(1957年)時点では既に現在の県道が開通していました。
旧道歩記 -植村駅~大隅横川駅区間-
植村駅より先は、前述の通り今までとはまた少し年代の異なる旧道になります。
下植村地区の旧道

県道から分岐し、JRの植村駅脇の線路と下植村第4踏切で交差。
植村駅の開業以前からこの場所にあった踏切です。道の規格は大きくなく、バス以外の大型車は通行することができません。

踏切からは植村駅の姿を見る事ができます。
こじんまりとした無人駅で、肥薩線開業からしばらくたった後の昭和32年(1957年)に地元住民および横川町が費用を負担する形で開業。
用地に課題があり、肥薩線の他の駅と比べホームが短いものになっています。今でこそ1~2両程度の列車しか止まらない当駅ですが、開業当時はそのホーム延長のせいで気動車のみの停車に制限されており、後に蒸気機関車の牽引する客車においても一部のドアのみを開く運用が行われました。
駅への入り口が山手にだけあるので、開業時には既に現在の県道のルートが開通していたようです。

旧道は下植村の宅地の中を通過。旧道の脇には小さな田の神さぁが鎮座しておられました。
植村地区は主に上植村、下植村、向植村という地区に分かれています。上植村は北側、下植村は南側、向植村は天降川を挟んだ対岸の地区。
上と下が付く例はよく見かけますが、あざ自体にプラスして向が付くのは鹿児島ではあまりない気がします。

石像などの形式を持つ田の神さぁは、主に九州南部独自の文化として分布していたんだよね!

住宅地を抜けた付近でまたまたJR 肥薩線と丸田踏切にて平面交差。
今回紹介する旧道の中では最後の踏切になります。踏切の近くの茂みにはポツンと一つだけ記念碑のような石塊があったものの、ただのはぐれ石材なのかはたまた風化しきった石碑なのか既に判別が付きませんでした。古いストリートビューには写っていないので迷い来んだ石材かもしれません。

丸田踏切からの坂を越え、再び県道と合流。
ここから200mほどの区間は旧道が存在しません。二車線の快適な県道を歩き次の旧道へと向かいます。
上植村地区の旧道

天降川が小規模に蛇行する付近、上植村の住宅地付近にも小さな旧道があります。地図上では一見すると谷に沿った旧道に見えますが、実際には谷に隣接する突き出した地形を迂回するルートになっていました。
新旧分岐点には月野木 幹緒さんという方の寄贈したイワツツジが植樹されています。

カーブ一つ分の旧道はすぐに県道に合流。当区間が旧道となったのは堂山地区等と同時期だったようです。ところどころに川に突き出ていた旧地形の名残らしきものが見られました。
合流後は再びしばらくの間旧道は県道と同じ場所を通ります。次に旧道が分岐するのは、一気に離れ約1.3kmほど先の片白橋付近です。
ちなみに撮影当時、いつ帰りのJR(肥薩線)が雨で止まるかでひやひやしており……ちょうどこの辺りで予定よりも一本前の列車に乗ろうと決め急ぎ足で探索を続けておりました。
結果として肥薩線は遅れず日豊本線が一時間遅れに……。
片白橋

天降川と県道が交差する地点に、片白橋という桁橋が架けられています。
それに並行する形で石橋が架かっており、これが旧道の片白橋(旧橋)になります。
県道の橋は昭和39年(1964年)に架橋されたもの。それ以前は旧道の石橋が利用されていました。

旧橋は綺麗な石造りアーチ橋。明治24年(1891年)から翌年にかけて架橋されたものです。
当時既にこの橋を経由する街道があった事を示す施設。今でも市道の一部として現役です。
橋の先からしばらくはまた県道と旧道は同じ道筋を辿ります。
肥薩線との立体交差

九州自動車道の陸橋を潜った先、すっかり横川の住宅地に入ったあたりに今回最後の新旧分岐点があります。横川郷土館へと入る道が旧道です。

旧道はすぐに肥薩線にぶつかり行き止まりに。
元々この場所には現在の県道の元のは別の函渠による立体交差がありました。堂山地域の旧道などと同時期に現在の県道のルートが開削され、旧道となったこの場所の函渠は撤去されたようです。
詳細な切り替え時期は県道側の函渠の銘板を確認すればよかったのですが……焦っていた事もあり確認を漏らしました😢。
しかしその前後の道は確かにここに函渠があった事を示しています。なお、線路を挟んだ反対側にも同様に函渠の痕跡はありませんでした
大隅横川駅

立派な木造駅舎が特徴のJR 肥薩線 大隅横川駅。この場所が今回の旧道歩記の終点になります。
いつもよりもボリューミーな内容となりましたが、今後もあまり情報が揃っていない状態での旧道の探索の記録としてナンバリングを続けていきたいと思います。
あとがき
全国各地に様々な年代の旧道がありますが、旧峠のような形で各種史料に記述されているものもあれば、全く情報の無いただの線形改良の旧道もあります。しかしながらそれら一つ一つもしっかり現地を歩いてみれば意外な面白さや当時の工夫が見えてくるもの。そんな旧道を今後もどんどんご紹介できればと思っています。
今回久々に霧島近辺を徒歩で歩いたのですが、居住地である鹿児島市とはやはり色々雰囲気が違いますね。特に肥薩線は鹿児島県内でも有数の古い現役の土木遺産であり、見ごたえがそこら中に……!
また夏の暑さが引いてきた頃に霧島を歩きたいですね……。

なお、肥薩線にはかつて山野線という鉄道路線も接続していたんだ。肥薩線の大隅横川駅と山野線の永野駅は峠一つまで接近していたんだが、わざわざ永野駅でスイッチバックを行って大口を経由し大隅横川駅より先の栗野駅に接続していたぜ