谷山慈眼寺仮線(JR 指宿枕崎線)

旧・谷山市

自動車と並び地方交通を支える重要なインフラ、鉄道
鹿児島では人吉経由の初代 鹿児島本線(※現在の肥薩線)が開業して以来、各地に様々な路線網が引かれる事になりました。
そんな路線のうち、鹿児島市と薩摩半島南部の指宿/枕崎を結ぶ路線として活躍しているのがJR 指宿枕崎線です。

指宿枕崎線は鹿児島中央駅枕崎駅を結ぶもので、途中の指宿駅を境に運行形態が大きく変わる地方路線。元々は終点枕崎駅で南薩鉄道枕崎線に接続していましたが、そちらが廃線となって以来は盲腸線となり大幅な赤字路線の一つになっています。

しかし、指宿枕崎線にはそんな状況に反し立派な高架区間が設けられています。
それが旧・谷山市の中心地、谷山駅慈眼寺駅の間です。
河川の改良工事から始まった高架化事業、今回はそんな高架化に伴い一時的に運用された仮線の概要とその跡地についてご紹介します。

当記事にて掲載している写真・一部現地情報は2023年のものです。

当記事では写真を多く掲載しています。データ通信量等ご注意ください

高架となった線路 谷山地区連続立体交差事業の概要

高架となった指宿枕崎線と木之下川

前提として、谷山駅~慈眼寺駅(※開通当初は未設置)間の線路が開通した昭和5年(1930年)当初は高架ではなく、田園の中を同じ高さで走る軌道でした。

時代が進み周囲が宅地となるにつれ、線路の存在はあらゆる面でネックとなっていきます。当区間の踏切は交通量に反して狭いものが多く、また線路を挟んで谷山中央側/西谷山側で地域的な分断が起きるといった問題が山積みになってきました。そのうえ、当地域では列車との衝突による人身事故も度々発生していました。

同時期に発生していた問題として、昭和後期から谷山地区を流れる木之下川が改修される計画が立った際に、当時の線路の高さでは護岸の嵩上げに対応できない事象が発生。そのため平成5年(1993年)頃、木之下川橋梁及びその前後の線路を築堤にて嵩上げする計画が持ち上がります。
しかし、その計画には複数の課題がありました。地域間の分断の助長、一部踏切の車両通行が不可になるなどです。そこでこれらの課題を同時に解決するべく、連続立体交差事業として当区間の高架化が検討されるようになりました。

旧・市電上踏切跡付近

平成6年頃から立体交差化に向けた動きが起こり、建設省などと協議が行われていきます。しかし、この計画に消極的だったのが鹿児島県政でした。
というのも、そもそもこの指宿枕崎線の運行本数は一時間に数本あるかないかといった程度であり、また沿線は今後の土地計画事業の検討のさなかであったため、様子見でいいのではというのが鹿児島県側の意見だったのです。

平成8年の市議会にて、市議会からも県当局に事業の必要性を訴える事になります。しかし、それでも鹿児島県側は当該区間に県道が無い事などを理由に、終始消極的な姿勢を見せました。
そこで市は方針を変え、限度額立体交差事業として鹿児島市が県の代行を担う形での立体交差化を視野に入れます。
その後も国交省などと連携を取りながら検討は進み、平成中期になってやっと当区間の立体交差化事業が実現するに至ります。事業主は最終的に鹿児島市で、平成28年(2016年)に高架化が完了、供用されました。

運行と並行した工事 慈眼寺仮線の概要

立体交差化の工事は当然数か月程度で終わるものではありません。鉄道の運行をしつつ、工事も進める仕組みが必要となります。
そこで、JR九州は線路敷のすぐ脇を並走する仮線を設け、工事と並行して列車の運行ができる状態を作りました。

仮線の総延長は約2.7km程で、谷山駅と慈眼寺駅も仮線用の仮駅が設置されました。その他踏切や橋梁なども仮設の物が設けられましたが、高架線の完成後それらは全て撤去されます。
仮線の跡地は鹿児島市に返還され、自転車道や車道の一部として転換されました。

スズ
スズ

新しい線路を造るために、その隣に別の線路を新しく敷くっていうのもなんだか面白いね

リスリル
リスリル

交通系の工事ではよくある話なんだぜ。
道路の橋をかけ替える際に、その隣に仮設橋を架けているのを見た事があるんじゃないか?

幻の線路 仮線跡地の現在

谷山駅~慈眼寺駅間の工事を支えた仮線。
現在線路は残っていませんが、その跡地は容易に辿る事ができます。
今回はそんな仮線跡地の現在の姿を、慈眼寺駅側からご紹介していきたいと思います。

高架の始まり ~慈眼寺駅区間
慈眼寺駅へと入っていくカーブ

仮線が設けられた区間は谷山駅~慈眼寺駅間きっかりではなく、実際には双方とも駅より少し先で仮線が分岐/合流していました。
慈眼寺駅側で仮線が分岐していたのが、駅の近くにある大きなカーブのあたりです。
仮線は現在の線路よりも外側を通っており、法面の直下あたりまで線路が迫っていました。
現在その跡地は私道と枕木等の資材置き場となっており入る事はできません。

種ヶ宇都第二踏切跡地付近

カーブの先で狭い道路と交差しますが、ここには種ヶ宇都第二踏切が旧線・仮線に設けられていました。
現在の線路の築堤下にある金属製の柵は仮線当時から残る名残。柵に沿う形で仮線が走っていたようです。
また、仮線当時はこの場所で慈眼寺駅(仮駅)に向かって線路が二本に分岐していました。

現在の慈眼寺駅と仮駅跡地

大通りに面したところで、高架となった慈眼寺駅を見る事ができました。ガラス張りが特徴的な高架駅です。
工事中はそのすぐ隣に仮駅が設けられ、プレハブ小屋の駅舎と跨線橋、簡素な造りのホームなどがありました。ロータリーのあたりがちょうどその跡地になります。

高架駅となるまでは可愛らしい橋上駅があり、階段に応援メッセージ等が書いてあったとしてナニコレ珍百景に取り上げられた事もありました。が、解体されて現在その姿は見る事はできません。
ここ慈眼寺駅は指宿枕崎線が全線開通した後に設けられた駅でもあり、昭和63年(1988年)に開業した当初は棒線駅で駅舎も地上にあったようです。

周囲の宅地化により利用者の多い慈眼寺駅。
筆者もよく利用する駅の一つで、一つ欠点があるとすればホーム上で日差しを遮るものがほとんどなく、真夏日は堪える事でしょうか……。

慈眼寺駅~谷山駅区間
大久保踏切跡

慈眼寺駅を出た仮線は木之下川を仮橋(※痕跡なし)で渡り、谷山駅へと向けて直線を進んでいました。写真の中で高架脇にある自転車道と道路の一部が仮線の跡地になります。
高架の形状は九州新幹線に似たものを採択しています。

このあたりにもいくつかの踏切跡があり、そのうちの一つが大久保踏切跡です。この踏切の一画にはかつて谷口商店という駄菓子屋があって、遠足シーズンには近くの谷山小学校の子どもたちで賑わっていました。そちらは残念ながら市道拡幅の際の土地買収を契機に閉店となりました。
思えば、この谷山にはもう駄菓子屋らしい駄菓子屋は残っていないように思えます。

試験場踏切跡

そのすぐ近くには試験場踏切という踏切の跡。現役当初は谷山中央方面から谷山中学校への通学にも使われていた踏切でした。仮線は同様に高架手前のあたりを通っていたようです。

また、その名の通りこのあたりの線路北側一帯はかつての農業試験場の跡地となっています。試験場は既に移転し長らく広大な県有地の空き地となっていましたが、近年民間へと土地を売り学校などへの転用が進んでいるようでした。

辻之堂第一踏切跡付近

ひたすらに高架線と並行して仮線跡を辿っていきます。高架化以前、このあたりはところせましと宅地の密集した地域でしたが、区画整理によりその面影は何処にもありません。

写真の道路は新永田橋と谷山駅とを結ぶもので、高架化された後に新たに整備されたメインルートになります。元々は旧・伊作街道がその役割を担っていましたが、そちらは高架化と共に廃道となり姿を消しました。

伊作街道踏切跡付近

やけにスパンが長い部分がありますが、これは伊作街道踏切の跡地になります。
前述の旧・伊作街道が通っていた場所で、街道に沿う形で家々が立ち並んでいましたが道も宅地も遺ってはいません。仮線の踏切も高架横にありました。
スパンが長いのは、高架化後も少しの間旧・伊作街道が利用されていたためです。廃道化後もしばらくその名残の側溝が舗装上に残っていましたが消失済。

谷山駅(仮駅)跡地

やがて慈眼寺駅と同じタイプの立派な高架駅 谷山駅が現れ、仮線の駅もその裏手にありました。
仮駅の駅舎は慈眼寺駅のものより一回り大きい、二階建てのプレハブ小屋だったようです。
駅構造としては旧駅の下り線ホームを上り線ホームとして転用し、新たに設けた仮ホームを下り線にあてる相対式ホーム運用でした。現在その跡地にはLa Plusという複合施設が建っています。

旧駅には国鉄の地方線らしい平屋の駅舎(2代目)があり、谷山市街地の顔になっていました。付近の小学校のスケッチの題材としてもよく使われていたようです。
こちらも現在は解体されてしまい痕跡はありません。

残る旧橋梁 谷山駅~区間
清見人道橋入り口

谷山駅以東もあと少しだけ仮線は続きます。
駅の先、仮線と永田川が交差する地点に架けられていたのが永田川橋梁の旧橋梁です。
こちらは現在歩道および自転車道に転用され、清見人道橋として供用されていました。

この橋が歴史的に少しややこしいもので、大元は高架化関係なく昭和後期に架けられた新橋であり、当区間の高架線はその際の旧線敷に造られているようです。そのため仮設橋梁ではなくしっかりとした造りの鉄道橋になっています。

仮線終点付近

鹿児島市電の谷山電停裏付近で、仮線は高架線に呑まれる形で終点を迎えます。
このあたりの仮線敷は駐輪場や道路の一部に転用されていました。

以上が仮線跡の現在の様子になります。
ほとんど痕跡らしい痕跡は遺っていないものの、随所に名残といえそうなものが散見されました。

あとがき

今回、私の地元でもある谷山地区の高架線の背景を取り上げてみました。
高架線でハイテク感があると共に、以前のような鉄道と一体化した景色を見る事がなくなったと考えれば何処か寂しい気もします。今は亡き祖母宅も沿線にあって、よくそこから走る列車を観ていたものです。
発展とノスタルジーはいつも同居するものなんでしょうね。
とりあえず、慈眼寺駅の直射日光問題だけは真面目にどうにか……(笑)

リスリル
リスリル

令和5年(2023年)には、当区間の高架線の防音壁の表面の一部が落下する欠陥が発見されたんだ。高架線には高架線なりのリスクがあるから、当然保守は大変だぜ

参考資料

・令和2年3月 『谷山地区連続立体交差事業 事業記録誌』

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