旧・内海橋と渡し船(宮崎市 内海)

宮崎県

起伏の激しい日本の大地において、縦横無尽に流れているのが河川です。
人類は交通・農業の最適化、信仰などの過程で河川に対し橋梁を架けてきました。木橋や土橋・吊り橋などといった簡易的な物から始まり、より強度の上がった石造り橋、そして鋼鉄橋や鉄筋コンクリート橋へと時代は移り変わり、現在ではより用途の広がったPC橋など風景の中の橋の姿も変わっています。

そんなどこにでも架かっているような橋。その橋一つをとっても、大小さまざまな歴史というものを持っています。
今回ご紹介する橋、宮崎県宮崎市の南部に架かっている内海橋にもまた、確かな歴史の痕跡が遺されていました。

日南市との境に近い内海川に架かる、カーブが特徴的な長めの橋ですが、過去何代かに渡る架け替えを経て現在の姿になっています。

現在の内海橋のデータ

  • 所在地:宮崎県宮崎市 内海
  • 竣工年月:現在の橋-昭和49年(1974年)/ 旧橋-昭和24年頃(1949年)
  • 延長:現在の橋-131.1m / 旧橋-87m
  • 幅員:現在の橋-11.3m
  • 現況:現役。旧橋は左岸側の橋台のみ現存
  • 備考:JR日南線は本数が少ないため利用の際は注意が必要です

内海橋の歴史と旧橋の痕跡

内海橋はその名の通り、宮崎市南部の内海港付近の内海川に架かる橋です。
現在のカーブが特徴的な橋は昭和49年(1974年)に架けられたもので、架橋後従来の国道220号線に加え新たに国道448号線内に指定された事に伴い、二つの国道の橋になっています。

この橋梁が架かっている道路は古くからの街道でした。鵜戸街道鵜戸神宮往還)というもので、ここより南の日南市沿岸に鎮座している鵜戸神宮への参詣に用いられた街道です。中でも鵜戸詣りシャンシャン馬道中)と呼ばれる習わしがあり、結婚した二人が鵜戸街道を通り鵜戸神宮へと詣るというものでした。その帰路においてこの内海や少し北の折生迫地区で一泊し、その後花嫁を馬に乗せその手綱を花婿が引いて家に向かい、その際の鈴の音からシャンシャン馬といいました。

実はこの鵜戸詣りは、今回の内海橋の歴史と関わりがあります。

旅館群と渡し船
渡し船の左岸側渡船場跡と松浦家跡

鵜戸街道上にはいくつかの河川があり、低規格の橋や渡し船で渡河されていました。
このうち、内海川の河口でも渡し船が行われていたと云われています。実際に古い地形図ではまだ内浦橋に相当する橋はなく、他の渡河箇所と比べここ内海川では比較的最近まで渡し船の時代があった事が伺えます。具体的な年月は不明なものの、少なくとも戦後時点では既に現在の橋の前身の内海橋が架橋されていました。

左岸側にはいまだに渡船場の名残があり、当時の街道を示すように北方の堀切峠から一直線に道路が繋がっていました。

「シャンシャン馬」宿泊の跡 案内看板

左岸側渡船場付近にはいくつもの旅館が立ち並んでおり、鵜戸詣りの際の宿泊に利用されていました。
中でも渡船場のすぐ脇にあった松浦家には長らく当時の旅館の風貌が遺っていましたが、平成7年(1995年)に失われ現在の内海地区から当時の趣は姿を消しています。

旧・内海橋
1965年12月の内海橋付近
(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)

現在のカーブ形状を持つものとは違い、直線的な線形を持っていたのが旧・内海橋(とそれ以前の同橋)です。この場所には前述したとおり戦後時点で何らの橋が架かっていましたが、左岸側の堀切峠からの道は依然として渡船場方面に直通していたため、橋に向かうには内海の住宅地内をジグザグに進む必要がありました。そこで現在の峠から斜めに直通する新道を開鑿し、その頃に一緒に内海橋を架け替えたのが旧・内海橋ではないかと思われます。
旧・内海橋の竣工は昭和24年頃(1949年)とされますが定かではありません。

旧道および旧橋跡(左)と内海橋(右)
※人の写り込みをモザイク処理しています

この旧・内海橋の痕跡は以外にも綺麗な形で遺っています。
左岸側の現在の内海橋の袂には不自然に分岐する舗装と消防団の車庫がありますが、これは旧・内海橋へ続いていた旧道の跡です。新旧分岐点には歩道橋がありますが、昭和40年代の航空写真を見ると旧道にも歩道橋のような物が設置されていたようでした。

旧・内海橋の左岸側橋台

そして消防団の建屋の裏手には旧・内海橋の左岸側橋台と親柱が非常に良い状態で遺っています。
消防団関連の敷地内なので近くでの撮影は自重しましたが、並行する現橋から容易に観察することができました。大正~昭和にかけてのコンクリート橋では典型的な堅牢な構造であり、国道の一部としての気概を感じさせられます。植物による浸食は著しいですが、遺跡らしい雰囲気があります。

右岸側の遺構は消失

一方、右岸側には残念ながら遺構は遺っていません。
元々右岸側は若干川に喰い込む形で突き出た人工築堤上に橋台があり、新橋架橋後築堤ごと削られたようです。旧橋の一世代前の旧旧橋は通常通り川岸と川岸を結んでいたようなので、おそらくここのすぐ上流側に船溜まりを設けた際に防潮堤としての役割を旧道に担わせたのではないでしょうか。論拠としては、旧旧橋の時点ではまだ船溜まりがきちんと整備されておらず、わざわざ現橋の下に旧橋の右岸側旧道跡に沿う形で旧橋時代にはない防潮堤が設けられているからです。

位置としては、写真下部に僅かに映っている防潮堤の途中あたりに旧橋の橋台はありました。

現在の内海橋
現在の内海橋全景

現在の内海橋は前述の通り昭和49年(1974年)に架橋されたものです。
カーブにする事で、より円滑な両岸の道路の接続を成立させています。実はカーブのある橋を造るというのは想像以上に難しいもので、この内海橋もよく見ると橋桁自体がカーブを描いているのではなく、直線の橋桁がスパンごとに角度を変えて接続されているのが分かるかと思います。これは一般的な手法であり、身近な道路橋や鉄道橋にも多く使用されている技術です。

なお、過去に(界隈では)有名な話として、曲線の桁を用いて美麗さを演出した牛深ハイヤ大橋という熊本県の橋は、その構造ゆえの想定外の負荷によりローラー支承が破損したという事例がありました。

以上が、内海橋および旧・内海橋、そしてそれ以前の時代からの大まかな歴史でした。
現地に遺構も遺っていますので、興味のある方はぜひ形が遺っているうちだからこそ見に行ってみてください。近くには宮崎交通線(鉄道)の廃線跡や太平洋戦争時代の回天(※特攻兵器の一つ)基地跡もあります。

あとがき

今回、件の宮崎交通線の廃線跡を訪ねた際にたまたま発見した旧橋跡の歴史について調べ、考察も含めて記事にしました。
こうした形でまだ見ぬ遺構に出逢う事は度々あり、例えば今年の初めごろに伊勢に旅行に行きましたが、そこで滝原宮を訪問した際に大きな橋跡の痕跡を見つけたのを覚えています。
もっとも、そういうのはなるべく現地の人が興味を持ち継承していく事が好ましいもので。その願いもあり、基本的にこのサイトでは鹿児島+αという形をとっています。
いつか、こういった小さな、それでいてかつて誰かが血汗滲む手で造り上げたものがしっかりと継承される世界がくればいいな、と理想論を抱え生きています。

スズ
スズ

ちなみに鵜戸神宮のある鵜戸崎付近を日南線は通っていないんだ。
陸側を長い谷之城トンネルで抜けて北郷方面から飫肥に向かっているんだよ。その背景には、もともと油津から飫肥を結んでいた鉄道、そして北郷付近を現在の日南線のルートで通っていた林用軌道の一部が日南線にそのまま転用された事があるんじゃないかな

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