城山 岩崎谷旧道

鹿児島市

桜島に並ぶ鹿児島市の象徴、城山。
古くは頂上付近に上山城が築かれた事を起源とし、後に島津によって麓に鶴山城が築かれると一気に鹿児島の歴史の中心となった歴史ある山です。
そんな城山ですが、かつて“車道建設”を巡って大きな騒動に発展した事がありました。この騒動は城山の道路造成に大きな影響を与えており、今でもその傷痕や意外な道路事情を見る事が出来ます。
今回紹介する道路もまた、その騒動の余波を受けて旧道となった古くからのルートです。

城山への車道建設と岩崎谷側車道

今では展望台やSHIROYAMA HOTEL KAGOSHIMA(旧・城山観光ホテル)の整備によって、観光地としての賑わいを見せる城山。しかしほんの百年ほど前までは頂上まで登るには旧藩時代の登山道を経由するしかなく、公園とは程遠い場所でした。
この背景には明治2年(1869年)の版籍奉還によって城山一帯が官有地となり、その後も陸軍によって管理される土地であった事があります。
転機となったのは明治40年(1907年)。当時の皇太子さま(のちの大正天皇)が鹿児島を訪問する事となり、城山へ登って欲しいという意見が上がったため軍との難航する交渉を経て展望台の設置と照国神社脇の登山道が整備されました。

皇太子さまの訪問に合わせて改修された登山道

その後、鹿児島は城山の観光資材としての活用をより進める事になります。明治43年(1910年)に入ると現在の城山遊歩道の前身となる市道の整備を開始。同年12月には5本の支線と共に完成し、昭和の初めごろまでには9本まで拡張されています。
しかしこれらは全て登山道という位置づけで、基本的に徒歩道としての位置付けでした。

大きな反発を招いた照国神社側車道建設


日本国内でも自動車の存在が大きくなり始めていた昭和5年(1930年)、鹿児島の在郷軍人会が城山に車道の整備を計画し始めます。以前整備したルートを活かしつつ、車道として改修した当時の七高グラウンド~山頂までを結ぶ車道計画です。
しかしこれには学者や連合学舎から大きな反発が起こりました。役所には抗議文が大量に送りつけられ、政府に史跡としての城山への車道建設の是非を問う事態にまで発展しました。
しかし政府は車道建設について「さしつかえない」との判断を示し、実際に市民や有識者の意見を一切無視する形で車道建設は強行されました。

スズ
スズ

車道があればとても便利だけど、建設反対派の方々の史跡を大切にしたいという意見も確かに理解できるよね。どうすればよかったんだろう?

リスリル
リスリル

こういうのは何とも難しい問題だからなぁ。正しい答えを選ぶのは難しいが、問題点を洗い出して一つ一つと向き合うことは出来る。
それを怠ったのは開発を進める側の明確な落ち度ではあるが……それに、当時はまだ庶民レベルまで車が普及していた訳ではないから、そこの不満もあったと思うぜ

しかしここで新たな問題が発生します。車道が完成に近付いてきたころ、なんと城山一帯が国の天然記念物に指定されてしまったのです。これを受けて困ったのが車道建設を推進してきた鹿児島の行政。彼らはせっかく作った車道を開放するのか、それとも天然記念物としての指定を考慮して通行禁止にするのかの判断を求められました。
結果として、下した判断は高貴な人物を除き原則車両の通行の一切を禁止する事になりました。強引に進めた車道の建設が、思わぬ形でその報いを受ける結果となったのです。
なお、現在に至るまでこの車道(※現在の城山遊歩道の一部)を車両で通行したのは昭和33年(1958年)に鹿児島を訪れた皇后両陛下のみに留まっています。

計画を練り直す中で生まれた岩崎谷側車道

大きな混乱を招いた末に照国神社側の車道が自動車通行禁止になった事を受けて、市では計画を練り直すはめになりました。市は天然記念物の指定地域外に車道のルートを定め、古くから利用されていた岩崎谷側の山道を改修する事にしました。
前置きが長くなりましたが、ここで登場する岩崎谷側の山道が今回の表題の岩崎谷旧道になります。
昭和9年(1934年)より計画・順次工事が進められ、問題が起きる事なく順調に車道は開通。この際に従来の山道では車道の規格に沿わないため、カーブを設けるなどしてルートの付替えが行われました。

岩崎谷旧道の風景

車道と比べ直線的な旧道

岩崎谷旧道は、車道建設や宅地造成に呑まれる事無く現在もその状態を良く遺しています。岩崎谷方面から市道 草牟田城山線を登っていき、やがて車道がカーブする地点で分岐していく小径が旧道です。
旧道は現道と比べて急な坂が続く代わりに、全線通して直線的なルートをしています。
またこの道の一部は現在も市道として管理されており、正式名称は城山旧道線となっています。

市道と交差する旧道

西郷洞窟のあたりで、旧道は一度現道と交差します。この旧道のある岩崎谷の麓あたりは西南戦争時代の激戦地の一つで、追い詰められた西郷軍の城山籠城戦の重要地にもなりました。
旧道の一部は現道に地形ごと削り取られており、付け替えられた階段を上った先で本来の旧道に合流できました。

階段になっている旧道

現道と分岐した後の旧道はより急な傾斜となり、道も坂ではなく階段に変わります。
また道のわきにはシラス壁が迫っており、シラス谷の側面を削って道を付けた事が分かります。

階段区間を抜けると現道下に出る

100mほどの階段区間を抜けると、開けた場所に出ます。進行方向左側には現道が開通しており、その一段下に旧道は付随していました。
場所は城山公園トンネルがあるあたりです。

現道との合流地点

そのまま進むとすぐに現道に合流し峠を迎えます。ここから先は新照院方面へ下る通称:無言坂がありましたがここでは取り上げません。

おわりに

今回ご紹介した旧道につきましてはちょっとしたレアケースな背景を持つものでしたが、傾斜の多い古道を現代的な道路に付替えて旧道が生じる事は至って普通の事です。その為その辺を歩いているだけで旧道というのは意外にも見つかるものです。
旧道にはその時代背景ごとに独特の趣があり楽しめる場所も多いので、散歩程度に通行してみるのもいいかもしれません。

スズ
スズ

ちなみに本来車道として整備された城山遊歩道は今でも市道に認定されて管理されているみたい。城山登山線といって中央公園から一続きの道扱いになっているよ!

参考資料

昭和44年9月8日 『城山物語』- 毎日新聞鹿児島支局

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