古くは南北朝時代以前から大小様々な城郭の築かれてきた地、鹿児島。鹿児島では古くから「人をもって城となす」と言われている通り、華やかな天守閣などを持つ城は発見されていません。
そして火山活動による地形を生かした自然の要害が各所にある事から、いたるところに山城や陣が置かれました。
今回はそんな鹿児島の城の中から、鹿児島市(旧・谷山市)の坂之上地域にあったとされる宇宿城址をご紹介します。
なお、宇宿と名がついていますが、JR 指宿枕崎線の宇宿駅がある宇宿町とは関係はありません。
宇宿城の概要
- 所在地:鹿児島県鹿児島市 坂之上一丁目
- 築城年代:~暦応4年(資料:鹿児島県の中枇城館跡 より)
- 現況:消滅
- 備考:駐車場等はありません。県道を挟んだ先に神前城址・伊佐智佐神社があります
宇宿城址の詳細
宇宿城は、和田地域の中心的な城であった和田城(別名:神前城および玉林城)と空堀を挟んだ向かいにあったとされる城です。築城者は和田城と同じ山田氏によって築かれたと考えられており、その位置関係から玉林城の外城の役割を担っていたのではないかと思われます。
この城について記した資料は少なく、上段が二町ほどの広さであったとの情報以外は規模や役割についてはっきりとしません。
ちなみに隣接していた和田城は天文8年(1539年)頃に薩摩統一を目指す島津貴久と出水領主である島津実久の交戦が行われた古戦場でもあり、その際貴久の元に白狐が現れ、勝利した後にその狐を祀ったのが慈眼寺跡にある稲荷神社だと言われています。
※なお、慈眼寺跡にある稲荷神社は当初鎮座していた稲荷山より遷座してきたもの

指宿と同じで、宿をスキって読むんだよね!
違う場所の町の地名にもなっている“宇宿”ってどういう意味なんだろう?

宇宿という言葉の由来には諸説あるが、有力なのはアイヌ語に由来するというものだ。アイヌ語ではウシとケの組み合わせで海辺という意味になるぜ。
この宇宿城址も、宇宿町の方もどちらもその条件に合致しているからあながち間違いじゃないだろうな
宇宿城址の現在の姿

宇宿城があったとされる一帯は現在坂之上一丁目として整備されており、当時の痕跡はほぼ見る事が出来ません。地形的には開発が進む以前の和田城址によく似てシラス谷の高台という自然の要害を活かした城になっていたようです。
具体的にどこが城の中心部であったのかは特定できませんでした。また、宅地化される以前にも既に耕地となっていたようです。

地図上で見ると平地に見える城址推定地ですが、実際に向かうと思ったよりも立体的な造りとなっています。
城があった当時もこれらの高低差を利用した造りになっていたのかもしれません。鹿児島の城郭ではシラス谷や火山性の崖を掘りに転用する事がよくあり、それはすぐ近くの谷山城址で顕著に見る事が出来ます。

隣接する和田城との間には2丈ほど(約6m)の高さの空堀があったとされており、その一部は現在も実際に確認する事が出来ます。ただし大部分は県道 玉取迫鹿児島港線の切通によって削り取られてしまっており、どこからどこまでが当時の堀なのか判別は難しい状態にあります。
当時の堀に沿う形で小径がありますが、崩れていたり荒れていたりするので侵入はあまりおすすめしません。

住宅地を少しはずれたところに、馬場公園という小さな公園があります。
馬場というのは元々のこの付近の小字で、意味としては通常乗馬をしたり馬を溜めておく場所になりますが、鹿児島の場合は道路としての通りという意味もあります。
どちらの場合でもこの小字がこの場所に残っている事は宇宿城址との関連性をうっすら感じさせます。
ただ別の説として、この馬場という地名は伊佐智佐神社の旧・鎮座地境内の馬乗馬場由来ではないか?とも考えられます。現在和田城址に鎮座している伊佐智佐神社は元々久津輪崎という場所から遷座してきたという話はよく知られています。具体的な場所としては宇宿城址より西側の五之原という場所に社があり、その境内にあったのが馬乗馬場です。現在五之原推定地もまた宅地となっていますが、この馬場公園は近い場所にあります。
おわりに
宇宿城は案内看板などが現地になく、資料を探したことのある人ではないとその存在すらも知らない事が多い城址の一つです。このような城址は鹿児島に限らず各地にありますが、こういったものを継承していくためにも地元でパンフレットか何かを作るのも面白いのかな、と思っています。
実際そのような事をしている地域はたくさんあるので、今後より地方が衰退していく可能性がある中で即急な対応を取りたいところです。

ちなみにこの宇宿城と和田城との間には堀とは別に城由来の野首という地名が残されていて、古い写真を見ると実際に突き出た首上の地形がある事が確認できるんだ。そこには国道225号線の旧道である山川路の坂道が通っていたようだぜ
参考資料
1.昭和62年3月 『鹿児島県の中枇城館跡 ー中世城館跡調査報告書一』- 鹿児島県教育委員会
2.明治17年6月8日 『鹿児島県地誌 上』
3.『旧記雑録 地誌備考一』 – 鹿児島県史料
4.昭和42年3月 『谷山市誌』 – 谷山市