時は平安時代。当時の日本の二大勢力である平氏と源氏は有名な壇ノ浦の戦いを含む戦を幾多に繰り広げていました(通称:源平合戦)。
最終的に壇ノ浦の戦いにて勢力としての平氏は滅亡する事となり、生き残った平家勢力者は落人となり潜んだ生活を余儀なくされます。これがいわゆる平家の落人と呼ばれる人々です。
平家の落人は全国各地にその伝承が残されており、主に山間部などの見つかりづらい場所で生活を営んでいたとされています。特に九州で有名なのは九州山地の五家荘や椎葉村。
そんな平家の落人の言い伝えは、意外にも鹿児島市の喜入の生見地区にも残されていました。今回はそんな生見地区に残る平家の落人の伝承地、道秀の墓をご紹介いたします。
道秀の墓へのアクセス情報
道秀の墓は、現在米倉集落内の米倉集落農事集会所裏手の道脇にあります。
現地には鹿児島市教育委員会の標柱がありますがそれ以外に案内看板等はありません。
駐車場等もないため、JR 指宿枕崎線の生見駅より徒歩での訪問がお勧めです。駅より片道約2kmほど、徒歩約30分ほどで訪問する事が出来ます。
道秀の墓とは? 平家落人との関連性

道秀の墓はその名の通り、道秀という人物の墓です。
道秀は現在の米倉集落で暮らしており、怪力無双とまで称されるほどの豪傑な人物でした。孟宗竹をタスキにして強弓を撃った等の逸話も残されていて、集落内の青矢という地名はその名残とも言われます(※ただし青屋との表記もあり、青矢が転じたものなのか伝承が誤っているのかは不明)。
そんな道秀ですが、彼は平家の落人であったと伝えらえています。

彼は後の米倉集落である米倉門の祖ともされ、更には同集落内に今でもある羽出島神社の御祭神ともいわれていますが建立の前後関係から定かではありません。
というのも、元々はこの道秀の墓は同神社の境内内にありました。しかし土砂崩れによって被災した事から社殿を現在の山手の方に遷し、その際に道秀の墓はこの場所に移されてきたそうです。
羽出島神社の旧・鎮座地はこの道秀の墓付近だったとされています。彼は村人からの信頼も厚く、彼が亡くなった際に村人は嘆き悲しみ、徳の高さを慕う意味で墓が建てられました。

ただし、本当に道秀が平家の落人であったのかについては疑問の余地があります。
というのも全国にある平家の落人の伝承地のうち、実際問題信ぴょう性に欠ける物も数多くあります。
この道秀もまた、本当に平家の落人であったのならばなぜ昔からの街道や海路に面したところで堂々と生活していたという点で疑問が残るのも事実。もしかしたら道秀の豪快さを見た人々が、彼の事を平家の末裔であると噂したのが伝承として今も残されているのかもしれません。
真実は今となっては知りようがないですが、平家の落人伝説というロマンが残されている事は事実としてここでは言及を避けて終わりたいと思います。

平家の落人がいたという伝説は、全国で有名だよね!
……でも源氏にバレちゃったりした人はいないのかな?

実際に源氏の追っ手によって命を落とした落人の言い伝えもあるぜ。
中には氏族の力を借りて隠れて生活したり、付近の土地の人々に協力を仰いでいた落人の集落もあったとされている。如何せんよく分かってない事も多いんだ
参考資料
1.『史跡めぐりガイドブック 喜入地区』 – 鹿児島市
2.『生見まちづくり協議会 資料』 – 鹿児島市
3.『鹿児島県地誌』 – 鹿児島県史料