桜島海軍基地跡

鹿児島市

鹿児島一のシンボルと言っても過言ではない存在、桜島。桜島の特徴は言わずもがな比較的市街地に近い活火山である事ですが、もう一つの顔として錦江湾の中央に位置し戦略上重要な場所でもあります。
戦略拠点としての歴史は古く、平安末期には長門城(※長田城、三角城、横山城とも)が横山集落北部の袴腰台地に築かれ、それらは錦江湾における監視・防御拠点として成立しました。
その後江戸時代末期に勃発した薩英戦争では袴腰台地の麓と烏島(※大正噴火により埋没した小島)に砲台が設置され、実際に錦江湾へと侵入してきた英軍に打撃を与えました。
そして時は第二次世界大戦末期。連合国側によって追い詰められ本土決戦が危惧される中で、桜島には海軍特攻戦隊による地下基地が築かれる事になったのです。

桜島海軍基地跡へのアクセス

桜島海軍基地跡へは、鹿児島市街地から徒歩で向かう場合には桜島フェリーを利用し港から10分ほどで訪問する事が出来ます。
車で訪問する際には近くに桜島港パーキング(※有料)があります。なお桜島フェリーには車ごと乗ることが可能です。

桜島海軍基地跡の詳細

海軍による軍事基地となった袴腰台地。
現在台地上には桜島恐竜公園がある

桜島海軍基地は、太平洋戦争の頃に袴腰台地(※城山台地とも)という小台地に造成されました。袴腰台地は一万年以上前に形成されたカルデラ外輪の一部と言われ、主に堆積岩とシラスによって成り立っている場所です。
台地の地下に壕を掘り無線基地(司令部)としたほか、台地上には高射砲を置き、少し離れた赤生原集落の海岸には魚雷格納庫を設置しました。魚雷発射台は今も現存し、高射砲が置かれた場所は桜島恐竜公園の一部となっています。また、本部のあった方崎付近には魚雷発射台が設置される予定でしたがそちらは未完成のまま終戦を迎えました。
今回は主に地下基地に絞ってご紹介いたします。

桜島海軍基地跡の入り口

桜島海軍基地跡は現在もその姿を遺しており、県道 桜島港黒神線脇の崖沿いでは封鎖された入り口をいくつか見ることが出来ます。
残念ながらその内部は公開されておらず立ち入る事は出来ません。ツアー等も開催はされていないようです。
以前はこの壕内に桜島火山観測所の地震計が設置されていたとも言われています。

入り口付近に建つ案内看板

入り口付近にはポツンと案内看板が立っており、そこには基地の内部構造が解説されています。魚雷の保管庫に加え、食糧庫や厨房、動力室に弾薬庫など本格的な基地だったようです。中では3000人程度にものぼる兵士が不自由な生活を強いられていたと言われています。
なお、この基地は先に述べた通り海軍特攻戦隊のうち第五特攻戦隊の基地なのですが、ここで軽く第五特攻戦隊について説明しておきたいと思います。
とはいえその字を見れば分かる通り、第五特攻戦隊は海軍内の特攻部隊の一つになります。その前身は佐世保及び鹿児島~沖縄の船団護衛を担っていた第四海上護衛隊で、空襲を受け艦船を失ったり、沖縄への航路が途絶された事により1945年に第五特攻戦隊として改編されました。
特攻とは特別攻撃隊の事であり、いわゆる人的リソースを中心に置いた、玉砕覚悟の決死の作戦を行う部隊をさします。語弊を恐れずに言うのであれば、使用する兵士の確実な死を前提とした命を物資として扱う作戦の事です。攻撃の成功や技術的失敗は兵士の死を意味し、兵器の故障等の理由から生還した兵士は再出撃や一時的な隔離を余儀なくされました。
神風特攻隊などが有名ですが、海戦においても同様に特攻を行っていました。

封鎖された隙間から撮影した基地内部

海軍による特攻には主に、日本では最も有名な人間魚雷である「回天」、体当たりを行う潜航艇「海龍」、同様に体当たりを行うボート「震洋」などがありました。
これらはどれも搭乗員が操縦し相手の艦船等に体当たりを行って攻撃するものでしたが、視界が不良であったり故障が目立ったりと不備も多いうえ、動きの遅さから相手に先に撃沈されるなどリスクに対して効果が極めて限定的な兵器でした。

スズ
スズ

航空機による特攻はよく取り上げられるけど、海戦における特攻はあまり聞いたことが無かったかも……

リスリル
リスリル

実際、その存在を知らないという人も多いだろうな。航空機同様特攻基地は各地にあったんだが、航空機と違って目に見えづらかったりそもそも運用上の戦果があまり芳しくなかった事もあるだろう。
ただ、記念館が設置されるなど決して継承活動が放棄されているわけじゃないぜ

台地上にある桜島恐竜公園(長門城址)。
この高台には高射砲や見張台が置かれた

桜島海軍基地跡を語る上で、梅崎 春生という人物がよく出てきます。彼は戦時下を生きた作家で、徴兵された後は海軍として一時この桜島海軍基地に滞在したこともありました。
その際の体験が、彼の作品である「桜島」にて詳細に書かれています。
彼は上官による暗い死の話を避け一人袴腰台地の上へと登ったそうです。その際に桜島を見て、青い物が一本もない土塊のように見える、と評しました。

落石防止柵の背後の崖の内部に基地があった

基地は横の広がりもあったようで、他に出入り口があった可能性もありますが今となっては治山工事や基地内部の崩落によって痕跡を辿る事は難しい状態にあります。
筆者は以前何かの機会で「少年時代に海軍の防空壕があり、その内部で遊んだ。当然親には叱られたものだ」といった旨の証言を目にした記憶があるのですが、その原典がどこであるかすっかり忘れてしまい定かではありません。鹿児島県立図書館の蔵書か何かだったと思うのですが。
もし今後鹿児島市が積極的に整備を行いツアーでも開催された際は、ぜひとも参加したいと思う場所の一つです。
なお、錦江湾を挟んだ鹿児島市街地の城山にも戦時中地下都市計画があり、T字防空壕と呼ばれていました。現在そちらは入り口すらも不明な状態にあります。

おわりに

南九州の戦略上の重要地点として、太平洋戦争時代には様々な基地や施設が設けられた鹿児島。中でも特攻は知覧や万世・坊津など各地に飛行場や基地が設けられました。
それらの痕跡は、シンボルである桜島という意外と身近な場所にも眠っているものです。国際的な緊張の高まりが日に日に懸念され続けている昨今だからこそ、一度過去の日本の戦争遺産にも目を向けてみてはいかがでしょうか。

リスリル
リスリル

ちなみに山口県では、当時の訓練員の宿場の跡地に海軍の特攻兵器の一つ「回天」についての回天記念館が設置されているぜ

参考資料

昭和63年3月 『桜島町郷土誌』

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