大乗院橋

鹿児島市

活発な火山活動に伴い蓄積した、石材に適した溶結凝灰岩の分布に恵まれた土地 鹿児島県。鎖国当時に長崎での外交を通じて広まった石橋は、現代に至るまで様々な場所で活躍してきました。
中でも鹿児島では肥後の名石工であった岩永 三五郎の存在が大きく、甲突川五大石橋や街道に架かる石橋群が彼によって架けられたほか、地元住民が水路に架けた石橋の一部も彼の技術を模倣して造られたほどです。
そんな彼が生前に架けた橋の一つが、鹿児島市の清水町 稲荷川にかつて存在した大乗院橋という石造アーチ橋です。

大乗院橋の概要

  • 所在地:鹿児島県鹿児島市 稲荷町
  • 竣工年月:天保13年(1842年) ※旧橋(石橋)
  • 延長:14.5m ※旧橋(石橋)
  • 幅員:4.2m ※旧橋(石橋)
  • 現況:石橋は流失。現在は同名のコンクリート橋
  • 備考:駐車場などはありません。近くの若宮公園内に縮小移設復元されています

大乗院橋の詳細

現・大乗院橋。
石橋を模したコンクリート橋

大乗院橋は、その名の通り大乗院というお寺の入り口付近に架かっていた橋です。大乗院と稲荷川をはさんだ先の坊中道という参道とを結ぶ役割を担っており、元々木造の板橋であったところ天保13年(1842年)岩永 三五郎によって石造りの太鼓橋に架け替えられました。
使用された石材はすぐ近くに石切場のあったたんたど石で、こちらも溶結凝灰岩の一種です。
やがて大乗院が廃仏毀釈によって廃れた後も、石橋は地元の往来に利用され続けました。しかし昭和63年(1988年)に発生した水害により一部流失・破損し、その後平成2年(1990年)現在のコンクリート橋が旧橋より少し下流側に架けられ石橋は廃橋となります。

リスリル
リスリル

橋の先にあった大乗院は、島津家の15代当主であった島津 貴久によって伊集院から移されてきたたいへん由緒ある大きな寺だったんだ。薩藩名勝誌などにも絵図が記載されているぜ

スズ
スズ

大きいお寺だったからこそ、廃仏毀釈による被害も大きかったんだね!
それに確か、大乗院が最初に廃仏毀釈の被害を受けたんだとか……今は清水中学校の敷地となっているよ

廃仏毀釈とは?

廃仏毀釈とは、日本でも何度か発生した仏教を廃し神道を尊重するように移行していく運動のことです。廃仏の過程で寺院などの構造物を破壊する事もさします。
鹿児島では明治初期の廃仏毀釈で広範囲かつ大規模的な破壊が行われ、県内ではほぼすべてが破壊され廃仏毀釈以前の寺院は一つも遺されていないと言われるほどです。これには近代化に向けた金属類の資材の確保という背景もあったと考えられます。

若宮公園内に移設復元された旧・大乗院橋

平成10年(1998年)になると、石橋の残された石材の一部を使用し隣接する池ノ上町内 若宮公園に縮小移設復元されました。
若宮公園は稲荷川のすぐ右岸に位置する高台で、元々の架橋地点からは約500mほど南の場所にあります。復元された石橋は元の大乗院橋の2分の1程度のスケールで、太鼓橋としての構造は現役当時のものを遺しています。移設復元の工事を担当したのは福村石材工業という会社で、その会社は他にも鶴丸城の城壁など様々な鹿児島の石造りに関する公共事業も担っています。

若宮公園内 復元された石橋の傍にある案内板

稲荷川の下流域には大乗院橋の他にも複数の石橋が架けられていましたが、現在はそのすべてが水害などによって架け替えられ現存しません。
稲荷川の下流域の清水地区は、古くはその全体が鹿児島市では初ともいえる城下町でした。海側には東福寺城(現・多賀山公園)が、そして大乗院跡とその裏山には清水城が築かれており、戸柱港という港にも恵まれたこの地は城下町として栄えたようです。

おわりに

鹿児島は石橋と同程度に水害も多い県で、今まで幾多の水害で石橋の多くが失われてきました。中には甲突川五大石橋や今回の大乗院橋のように移設復元がされるものもありますが、ほとんど情報や痕跡を残さずに消えている橋も数多く存在します。
自宅の近くにある橋が元々どのような歴史を持っているのか、探ってみるのも意外と面白いかもしれません。意外な事実が残されているかも……。

リスリル
リスリル

橋に使われたたんたど石の石切場の一つはまだ残っていて、旧街道である東目筋の坂を登ったあたりにあるぜ!
……かなり疲れる坂だが、運動がてら行ってみるといい。道が狭いわりに車の往来は多いから気をつけてな

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