福元軍馬育成所(慈眼寺東公園)

旧・谷山市

交通や祭事など、歴史上様々な形で人間と関わってきた動物、
中でも軍馬と呼ばれる馬たちは、騎兵のような形で兵士を乗せ戦ったり、単純に軍の物資を遠くまで早く届ける輸送の為に利用されたりしました。
近代の日本においては、明治7年(1874年)に当時の陸軍省によって軍馬局が設置。後に軍馬補充部に改称され、その過程で全国に育成所や支部が設けられる事になります。
そのうちの一つが、鹿児島市の谷山・現在の慈眼寺東公園の場所にかつて存在した福元軍馬育成所(軍馬補充部福元支部)です。

福元軍馬育成所跡へのアクセス

慈眼寺町内にある、慈眼寺東公園・谷山護国神社・旧慈眼寺寿光園(※解体済)一帯が跡地です。
自家用車の場合は公園内に駐車場があるほか、公共交通機関の場合はJR 指宿枕崎線 慈眼寺駅より徒歩約10分ほどで訪れる事が出来ます。

福元軍馬育成所の歴史

1948年3月の軍馬育成所跡地(営林署)
(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)

福元軍馬育成所は、軍馬の保育を目的に、明治17年(1884年)に当時の陸軍省によって設置されました。
元々原野だった慈眼寺地域の稲荷山地区を開拓し、広さは約3町あまりの敷地を持っていたとされます。これは現在の慈眼寺東公園の広さと合致しています。
その後明治29年(1896年)になると、軍馬育成所は軍馬補充署へと改称され、それに伴い福元軍馬育成所も軍馬補充部福元支部へと名を変えました。
長らく稼働したものの、後に宮崎県の高原に移転する事となり、明治39年(1906年)には廃止されます。跡地には鹿児島営林署鹿児島苗畑事業所が設置される事になりました。
また、跡地の一部は八色 彦次郎という人物が借り、大正5年(1916年)頃からは製氷会社がしばらく設置されました。この製氷会社は谷山では初の会社組織といわれ、谷山漁港における水産物冷凍に貢献しました。

1975年1月の軍馬育成所跡地(慈眼寺東公園)
(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)

しかし製氷会社はその後10年ほどで閉鎖。営林署もこの地が苗畑に適さないとして、昭和29年(1954年)に現在の考古歴史館付近へと移転していきます。
再度宙ぶらりんとなったこの土地は、昭和30年(1955年)に護国神社が移転されてきたことに続き、慈眼寺東公園や老人ホームである慈眼寺寿光園が整備される事となり今に至ります。
なお、慈眼寺寿光園は令和に入ってから閉鎖・解体されました。跡地は令和8年より始まる谷山支所改修工事の際の、仮庁舎として整備される予定です。

福元軍馬育成所跡地の現在の風景

慈眼寺東公園前交差点

本記事中でも何度か記載している通り、軍馬育成所の跡地は現在慈眼寺東公園となっています。そのため当時の痕跡というのはほとんど残されていません。
公園付近を通る大きな道路をかつては浜田道といい、谷山往還から分岐し木屋宇都を経由、上鬼燈火谷地域へと至る街道の一つです。現在は道路の線形改良工事や区画整理により当時の道筋は失われ、軍馬育成所の跡地の土地の一部も削られています。
また、この付近には昔は赤煉瓦工場がいくつかありました。写真の慈眼寺東公園前交差点のすぐ近くにもあったようですが、現在は姿を消しています。

谷山中央耕地整理記念碑

慈眼寺東公園前交差点の一画には、谷山中央耕地整理記念碑がひっそりと佇んでいます。
谷山中央地区一帯の河川改修・道路改修や耕地整理の完了を記念したもので、昭和4年(1929年)に建てられました。背面には耕地整理の流れがざっくりと刻まれています。
この頃近くを流れる木ノ下川の流路が直線化されたものと考えられます。流路が直線化される以前の木ノ下川は一部現在のJRの線路方面に大きく曲がっている箇所があり、その形に沿った田んぼが烏帽子状であった事から、その近くには烏帽子田公園という名前の公園があったりします(※諸説有)。
また、この耕地整理記念碑は元は営林署から浜田道を挟んだ場所にあったらしく、いつ頃からか移設されてきたようです。

かつての入り口付近

軍馬育成所は営林署時代までの間、その周りを塀で囲まれていました。
公園の入り口と駐車場との間あたりは、塀が途切れ入り口が設けられていた事が古い地図から確認できます。また、駐車場と大通りとの間の植生スペースは、道路の線形改良が行われる以前の旧道敷の名残になります。
写真の奥の左側、旧・JAグリーン鹿児島 慈眼寺支部(※慈眼寺公園前バス停付近)のあった場所には、軍馬育成所の土地が少し南に突き出た地形が存在しましたが、そちらも道路の改良や区画整理で消滅しました。

谷山護国神社

軍馬育成所跡の西端部には、谷山護国神社が鎮座しています。
明治4年(1871年)、元は戊辰戦争の生き残りであった西村 正辰らにより、谷山麓内にあった常楽寺墓地に小社が設けられたのがこの神社の始まりです。
その後明治19年(1886年)に慈眼寺跡に一度移転し、昭和30年から31年にかけて現在地へと再度移転されてきました。

慈眼寺共同墓地近くから見た慈眼寺東公園

軍馬育成所は、北側を稲荷山と呼ばれる小山から続く高台に囲まれていました。
また、それに沿う形で塀も設置されていたようです。
現在高台は宅地化されて山であった当時の姿をほとんど失っていますが、公園に面している場所に共同墓地があり高低差だけは残されています。
営林署時代には、裏手の高台の中を既に現在のJR 指宿枕崎線の線路が通っていました。
また、園内には野球の出来るグラウンドと、駐車場の方にテニスコートが設けられています。この近くでテニスコートのある公園はここのみです。

園内に残る樹齢約110年のラクウショウ

園内の正面入り口近くには、樹齢約110年とされるラクウショウが保存樹として保存されています。
元々この場所に生えていたものであるなら、営林署時代からの物になるんでしょうか。
航空写真でもこの付近に樹木がいくつか生えている事が確認できました。

慈眼寺東公園の遊具ゾーン

前述の共同墓地の下あたりに遊具ゾーンがあります。付近の公園で遊具の取り壊しやリニューアルが続く中、昔からの遊具が残っている数少ない場所です。
遊具ゾーンより先には公園の北側出口が設けられています。
なお、軍馬育成所を囲っていた塀は遊具ゾーンの手前あたりで途切れていたそう。

リスリル
リスリル

慈眼寺には、遊具や野球・テニスなど遊びやすさに重きを置いた慈眼寺東公園と、自然豊かで春には桜の名所として名を馳せる慈眼寺公園(慈眼寺跡)があって、色々と公園に恵まれた場所といえるな

スズ
スズ

他にも耕地だった場所を転用した中央公園や、農業試験場の跡地の一画に造られた第二中央公園なんかがあるんだよね!
住みやすい街になるよう、区画整理が今なお続けられているみたいだよ

慈眼寺東公園の遊具ゾーン

北口の脇には、軍馬育成所跡地の一画に旧・慈眼寺寿光園が少し前までは建っていました。
現在は解体され、更地となり建屋はおろか痕跡すらありません。
今まで見えなかった軍馬育成所の痕跡が出現している……という事もありませんでした。
前述の通り、この場所には数年後谷山支所の仮庁舎が建設される予定です。

全体通してほとんど当時の痕跡は残っていませんが、これが現在の軍馬育成所の跡地の様子になります。
しかし、実は軍馬育成所から少し離れたところに、名前のみ軍馬育成所の存在を伝える物が二つ残っています。

南軍馬橋と東軍馬橋

南軍馬橋

軍馬育成所跡から南方、和田川に架かっているのが南軍馬橋という橋です。
平行して架かっている新和田橋の旧橋にあたり、大正から昭和初期にかけて架橋されたものと思われていますが、詳細な架橋年月ははっきりしません。
特筆すべきは、橋の名前に入っている軍馬という文字です。この辺りには軍馬育成所以外に軍馬に関する施設があったとする情報はなく、おそらく軍馬育成所から南に位置する橋という事で南軍馬橋と名付けられたのではないでしょうか。
ただし、古くからこの場所に道こそあれど、現在の橋自体は軍馬育成所(補充部福元支部)廃止後に架けられたものであると考えるのが自然です。
また、この橋を経由する道路と現在の新和田橋経由の道は若干線形が異なっていますが、地元のご高齢の方の話によれば以前の狭い道を喧嘩道路と呼び、狭さゆえに車で睨めっこになる事があり喧嘩が多々起きたそうです。

東軍馬橋

南軍馬橋から東に進んだ先、和田小学校前あたりには東軍馬橋という橋も架かっています。
南軍馬橋同様に、軍馬育成所跡から南東に位置している事からこの名前が付けられたと考えられます。こちらも大正から昭和初期にかけて架橋されたものと思われていますが、詳細な架橋年月ははっきりしません。
ただし橋の造りがどこかアーチを帯びており、煉瓦積みの垂直的な橋脚をもつ南軍馬橋とは構造が異なります。こちらの橋の方が後に造られたのでしょうか。

このように、軍馬育成所跡は、意外にも少し離れた場所にその名残が残されているのでした。

おわりに

今回は、意外にもあまり知られていない、中規模の公園に眠る過去をご紹介しました。
実は私自身幼い頃はこの慈眼寺東公園でよく遊んだものですが、自分で調べるまでは誰からも軍馬育成所の存在を伝えられた事はありません。単に誰も知らなかっただけかもしれませんね。
今回久しぶりに訪れて歩いてみて、昔は大きく見えた存在が、やけに小さく見えて少しだけ成長と哀愁を感じたものです。

リスリル
リスリル

余談だが、この軍馬育成所のあるあたりの地名を稲荷山ともいうんだ。昔このあたりの小山に、稲荷神社が鎮座しておられた事から付いた名前だな。
現在、稲荷神社はかつての慈眼寺の観音堂跡地に遷宮しているぜ

参考資料

昭和42年3月 『谷山市誌』 – 谷山市

タイトルとURLをコピーしました