活発な火山活動に伴い蓄積した、石材に適した溶結凝灰岩の分布に恵まれた土地 鹿児島県。鎖国当時に長崎での外交を通じて広まった石橋は、現代に至るまで様々な場所で活躍してきました。
鹿児島市街地を流れる甲突川にも、かつては甲突川五大石橋という大規模な石橋群がありました。それらは主に肥後の名石工であった岩永 三五郎の手腕によって架橋されたものですが、石橋を構成する石材は鹿児島市近郊で採石されたものが使用されています。代表的な物が、甲突川のすぐ上流側にある小野地区で採れる小野石や河頭地区の河頭石です。
今回はそれらの地域に近い犬迫地区にかつて架かっていた道ヶ迫橋という石橋と、その現在の姿をご紹介します。
道ヶ迫橋の概要
- 所在地:鹿児島県鹿児島市 犬迫町 下門
- 竣工年月:大正11年(1922年) ※旧橋(石橋)
- 延長:詳細不明 ※旧橋(石橋)
- 幅員:詳細不明 ※旧橋(石橋)
- 現況:石橋は消失。現在は同名の桁橋
- 備考:駐車場などはありません。近くの市道の旧道脇に改修記念碑が建っています
道ヶ迫橋の詳細

道ヶ迫橋は、支流である犬迫川が甲突川に合流する1kmほど手前に架かっている橋です。
現在は写真のようなコンクリートの桁橋となっていますが、古くは石橋であったことが伺えます。
現在の橋は平成7年(1995年)の3月に架け替えがされたもの。橋の先の右岸側へと続いている道は行き止まりとなっていますが、以前は南の名突地区へと向かう山道が存在していました。
その沿道一帯を道ヶ迫といい、複数の建屋が点在していたようです。現在山道は廃道となって久しく建屋も残されていません。この橋もその山道へのアクセス路だったようです。
道ヶ迫という地名は、その名の通り道のある迫(※谷地形)と考えるのが自然。

橋と犬迫の大通りの間、大通りの旧道である三日月路沿いに道ヶ迫橋修紀念碑が建っています。
この道ヶ迫橋、なぜか各種史料を見ても全くといっていいほど言及したものが無く、この改修記念碑が唯一の歴史を語る存在になっています。
石碑によれば道ヶ迫橋は大正11年(1922年)の5月に架橋され、その工事費は当時のお金で1,680円であったとのこと。これは現在の価値に換算すれば、ざっと数百万から数千万円程度です。
石碑の土台部にはその費用を負担した人々の名前が連ねられています。
架橋された橋が石橋であった事は明言されていないものの、工事費用や当時まだ地方ではコンクリート橋が主流では無かったことを考えれば石橋として架けられたと考えて問題無いと思います。このあたりには河頭石といった石材が採れる採石場も多くありました。
また、石碑に改修と刻まれている通りそれ以前からこの場所には何かしらの橋は架かっていた事が地図からも確認でき、恐らくは同名の木橋や土橋があったのでしょう。

改めて道ヶ迫橋を見ると、石橋を連想させる意匠がされているのが分かります。
地方の観光地の園路という訳でもない橋としては珍しい欄干や見た目をしており、側面は石積みを、欄干はアーチを表現しているようでした。
もっともこれを以て旧橋が石橋であったと断言するのは難しいのですが、鹿児島市内では他にも谷山の木之下橋などで同様の石橋だったことを匂わせる意匠があったりします。
ちなみにいつ頃まで石橋であったのかは定かではなく、現在の橋の前にも一度昭和後期に架け替えか拡幅かが行われた事が航空写真から判明しています。
架橋にあたっての背景情報などの確かな事が分からないため、今回は主に現地情報のみのご紹介とさせていただきました。
郷土誌などを漁り、また情報があれば追記していこうと思います。
あとがき
今回、石碑が残っていながらなかなか注目されていない小さな橋を取り上げてみました。
同様の橋は各地にあり、その全てをご紹介するのは難しいですが、石碑の風化は年々進行している為せめてその存在があった事を一つでも多くお伝えしていきたいところです。
中には残念な事に、工事や災害によって損壊、流失してしまうケースも少なくありません。何かの記念にでも、近くにある石碑を撮影していれば何れ誰かの役に立つかもしれませんよ。

この橋は平成7年に架け替えられたものだが、鹿児島では平成5~7年頃にかけて架け替えられた橋も多いんだ。平成5年に発生した8.6水害を含む豪雨被害によって甚大な損傷を受けた橋が多かったのが大きな理由だな。もちろんそれだけではないので、この橋の架け替え理由は不明なままだぜ