今昔様々な火山活動の舞台となっている地、鹿児島市。
火山噴出物の積もった広大なシラス台地に囲まれ、平野部も少ない中で集中的に住宅地として当初栄えたのが現在のJR 鹿児島駅付近と鹿児島中央駅付近でした。
しかし近代以降は人口が増加。狭い平野部だけでは限界が見え、各地でシラス台地上に団地を造成する流れが生まれました。
そうして造成されていったのが、現代における桜ケ丘、紫原、星ヶ峯などの団地です。
今回はそのうちの一つ、桜ケ丘団地造成に関わる水喰谷の話をご紹介します。
桜ケ丘団地とは?

桜ケ丘団地は宇宿地区と中山地区の間、旧・鹿児島市と旧・谷山市の市境付近のシラス台地上に位置する住宅地です。昭和54年(1979年)に完成し、今なお鹿児島市近郊の主要な団地として一定の存在感を放っています。
団地が造成される以前、この高台一帯は上ノ原と呼ばれる耕作地でした。逆に集落といったものは無く、広大な畑の中にぽつりぽつりと木々が生えているような状態です。
勿論、その事には理由があります。シラス台地を構成する地質というのは、水はけが極端に良すぎるが為に生活用水を確保する事ができず、居住には適さないのです。その為鹿児島では古くから台地の麓や狭い平野部に集落が形成され、台地上は湧き水や井戸水を輸送し畑作に利用してきました。サツマイモなどが鹿児島の重要な作物となったのはこのような特徴と相性が良かった為です。
ここ上ノ原でもサツマイモ、陸稲、麦、菜種、タバコ、栗、お茶などが生産されていました。

しかし昭和も後半に差し掛かった頃、鹿児島市内の農業は衰退し始めると同時に都市化による住宅地の不足が問題となり始めます。上ノ原台地上の耕作地も荒れ地が目立ちだし、そこに目を付けた不動産業者によって虫食い状に土地が取得される事態になりました。
農協や地権者の人々はそれを善しと思っていなかったものの、各種資金の工面の為にと土地はどんどん売られ荒れ地となっていきます。事態を重く見た人々は当時既に隣接する自由ヶ丘団地の造成に協力していた中山農協へと協力を求め、紆余曲折ありながらも鹿児島市中山土地区画整理事業として桜ケ丘団地の造成へと至りました。
そうして今日に至るまで活躍している桜ケ丘団地が生まれたのです。
造成を阻む深淵の谷群

桜ケ丘団地の造成は決して一筋縄ではいきませんでした。
地権者との各種交渉に加え、上ノ原台地には複数のシラス谷が食い込んでいた為です。
シラス谷はその形成過程において特異性を持ち、狭く深い谷となる事がほとんど。造成予定地となる区画の中にはその深さが50m近くにも及ぶ箇所もありました。
特に問題となったのが、西部の二つの水喰谷、東の笹貫団地付近の複数の谷(浦田谷)、北の鍋ヶ宇都付近の二つの谷(保安林谷)でした。
事業者は土地の有効利用、また安全の為にもこれらの谷を埋める事が必須と考えます。しかし当時50mほどにも及ぶ盛土は前例が無く、鹿児島県に認可を得ようとするも「建設省からの通達により15m以上の盛土は計画不可」との一点張り。
しかし事業者らはめげず、実験を繰り返しやっと了承してもらえることになります。その後建設省の同意を得るべく県の担当者と赴き、二度に渡る訪問と説明で盛土認可問題は解決しました。
大男伝説の残る二つの谷 水喰谷
今回掘り下げるのは、上記のシラス谷のうち水喰地区にあった二つの水喰谷です。
ここではそれぞれ北の方から水喰谷①、水喰谷②として紹介します。
谷を流れる水 永田川への合流点までの流路

まず最初に軽く水喰谷を流れる水について。シラス谷は基本普段は川と云えるほどの水量はありませんが、降雨時には沢のような水の流路となります。
水喰谷①と水喰谷②の流域の水は中山バイパス付近で合流し、自由ヶ丘の脇を流れ永田川へと合流しています。流路は暗渠となっていてかなり分かりやすい状態。
流域には現在の自由ヶ丘団地付近にあったとされる山城、椿山城の外城にあたる栫城址があります。

中山バイパスの中山団地入口交差点付近、写真の箇所が水喰谷①と水喰谷②の流路の合流点。
写真右の道は中山地下道を経由して桜ケ丘団地へと至る水喰取付道路です。
水喰谷①と水喰谷②の間には北部2号調整池もあります。

暗渠として残っている流路は、桜ケ丘団地を造った時に谷を埋める工事の一環として整備されたの?

いや、昔からほぼほぼ今と変わらない場所を小川として流れていたようだ。
中山バイパスの開通で分かりづらくなっているんだが、元々この辺りは谷が複雑に入り組んでいる地形だったんだぜ
公園脇に佇む構造物 水喰谷①

中山一丁目の一画、中山東公園脇で突如姿を現すのが水喰谷①です。その脇には水神さまらしき小さな祠も鎮座しています。
特徴として間口が約38mと広く、現在は埋め立て後の防災設備としてコンクリート擁壁が設置され、谷の内部を覗き見る事はできません。当時の谷の深さは約50m、奥行きとしては約300mで現在の桜丘中学校付近まで延びていました。

水喰谷はどちらも桜ケ丘団地が造成される以前より砂防指定区とされていて、実際に水喰谷①には当時既に砂防堰堤及び谷頭工が五か所あったと云われています。工事の際にもそれらは活用されたようです。
埋立工事は雨水との戦いでもあり、ここ水喰谷①では調整池のほか水たたき工や盲暗渠を敷いて対策。また、工事中は重機を入れる為の仮設道路も敷設されました。

現在は谷の半分以上が埋め立てられ、残った僅かな谷区間は桜ケ丘団地の上から覗くぐらいでしか見る事ができません。
写真は水喰谷①に付随していた窪地を埋め立てたあたりです。奥の谷となっている箇所が水喰谷①。
轟轟と流れる水 水喰谷②

水喰地区の旧道沿い、暗渠の終点にあるのが水喰谷②。
こちらは元々の奥行きが約750mほどととにかく長く、現在の桜ケ丘中央公園付近まで食い込んでいたようです。
団地造成以前は谷の途中に三か所治水用のコンクリート堰堤が設置されていました。

埋め立てに際し、水喰谷②の上流側には北部2号調整池が、間口には高さ約12mにも及ぶ砂防堰堤が設置されました。
堰堤からは轟轟と水が流れ出し、暗渠となった水路を通って永田川へと流れていきます。

水喰谷②もその大部分が埋め立てられ、残された谷部分へも近付く方法はありません。
桜ケ丘団地から北部2号調整池へと降りる道の途中、柵越しに見れる写真の谷が水喰谷②。
遠くとも水が流れる音だけははっきり聞こえます。

水喰谷②の本来の流路より少し西にあるのが北部2号調整池。水喰谷①と水喰谷②に囲まれた半島状の地形に造成されたもの。
その遥か向こうに見えるのは薩摩半島の中核を成す山々です。
水喰という地名の由来
さて、ここまで読んでいてこう思った方もいるかもしれません。
「水喰って地名、あまり聞かないけど……?」と。
水喰という地名の読み方については統一されていません。みつくれ、みっくい、みずくれ、みぐれなど時代や人によって異なる読み方をします。現代的にはみずくれと呼ぶのが普通かな、と思います。
そしてその由来は、普通に考えれば水はけのよいシラスやそれによる湧き水の事を指しているのでしょう。或いは誰かが「水をくれ~」とでも叫んだのかも。
しかし、中には面白い言い伝えもあります。
その昔、この付近へ突如大男が現れ、入来地区と登上平地区にまたがり水を飲んだことから水喰と呼ばれるようになった、と云うものです。入来地区には当時の大男の足跡が残っているとされ、その事から住民たちは入来地区の原を足形原と呼ぶ、と。
また、当時から水喰は水が絶える事が無い場所と云われていたんだとか。
当然これらはただの伝説に留まるものの、何かしらの権力者が転じて大男という形で残っている可能性もあります。今となっては、地元の方でも知らなそうな話ですが。
あとがき
今回、桜ケ丘団地造成の背景にあった大きな試練、シラス谷のうちから水喰谷をご紹介しました。
他の谷もそのうちご紹介できればと思います。と、いうのも基本的に撮影地への移動などは自転車で行っているのでなかなか高台の団地に登るのがつらく……。
鹿児島に住むうえで困るのは気軽なサイクリングが出来るスポットの少なさでしょうか。近郊の平地はこぞって都市化が進んで不自由極まりないですし、犬迫あたりは楽しいですが一度百メートルを越える高さを登り切らないといけません。

桜ケ丘団地の名前を決める時には公募が行われて、桜島を一望できるという事で桜ケ丘が選ばれたんだよね
参考資料
1.昭和42年3月 『谷山市誌』 – 谷山市
2.昭和54年 『桜ケ丘 鹿児島市中山土地区画整理事業の記録』 – 鹿児島市中山土地区画整理組合