扇山公園 ~8.6水害とその残滓~

薩摩半島南部地域

平成5年(1993年)、夏。
その年は全国的に梅雨が例年よりも長く、居座った梅雨前線といくつかの台風の影響を受け九州南部は7月末の時点で脆弱な状態となっていました。
そこに畳みかけるように発生したのが、8月の1日に発生した豪雨、通称 8.1水害8.1豪雨)です。8.1水害では鹿児島県内で最大一時間降雨量約100mを超える雨が降り注ぎ、特に姶良郡で橋梁が流される等甚大な被害をもたらしました。
しかしそれだけでは収まらず、その数日後の6日からは鹿児島市を中心に豪雨が襲いました。その際に発生した多大な水害被害が、鹿児島市では近年最大の水害としてよく語られる8.6水害8.6豪雨)です。
8.6水害は鹿児島市内外の各地で死者数十人を含む大きな被害を与え、鹿児島市の水害対策の転機となりました。

あろうことか、そのような大規模な水害の発生後も今度は台風が南九州を襲いました。9日には台風7号が、そして月を跨いだ9月の3日には中心気圧930hPaという猛烈な台風13号(ヤンシー台風)が鹿児島を襲い、数多の水害からまだ回復しきっていない鹿児島県内に甚大な被害をもたらしました。

その際に発生した土砂災害の地が、今回ご紹介する南さつま市の扇山公園です。ここでは一つの家にまとまって避難していた住民たちを土砂崩れが襲い、20名の尊い命が失われる事態となりました。

鹿児島市街地を襲った大水害 8.6水害の概要

8.6水害によって甲突川からの越水が発生した鹿児島市 入佐地区。
同地区にある河頭浄水場は土砂流入で機能停止に陥った

扇山公園の前に、その土砂災害の遠因ともいえる8.6水害について軽くご紹介します。
前述の通り、8.6水害は平成5年(1993年)の8月6日午後から鹿児島市を中心に断続的に続いた豪雨とそれによって発生した一連の水害の事をさします。鹿児島市を流れるいくつかの河川が氾濫し、一万戸を越える家屋が浸水したほか、複数の橋梁の流失や一部水道施設の機能停止をもたらしました。吉野の海側、花倉地区にあった花倉病院では土砂崩れが病院を襲い、入院患者等あわせて15名が亡くなりました。
道路では西九州方面へと続く国道3号線の甲突川沿いの複数地点で大規模な路盤崩落が発生。中でも小山田小学校付近の名越地域では、甲突川が国道3号線の路盤を完全に削り切る事で大きな谷が生まれ、当時はグランドキャニオンなどと称されたほどです。
各種交通インフラにも混乱は波及し、脆弱なカルデラ外輪山と海の間を通るJR 日豊本線は大規模な土砂崩れが線路と竜ヶ水駅にて停車中の電車に直撃。乗務員の機転により人的被害は少なく留まったもののインフラへのダメージは強く、JR 日豊本線は数か月間にわたり不通となりました。
鹿児島市電においても軌道上に土砂の流入があり数日間の運転見合わせ、バスは既定のルートが崩落等で使えなくなり特殊なルートを経由しての運行がされたそうです。
他にも甲突川を代表する土木遺産であった甲突川五大石橋の一部や、かつての街道上にあり当時鹿児島最古の石橋とされていた実方太鼓橋の流出など、その被害は多岐に渡ります。
また、人的被害も甚大で死者は約死者48名/行方不明者1名を出す惨事となりました。

8.6水害後の鹿児島を襲った台風 ヤンシー台風

ヤンシー台風による土砂災害の被災地跡 扇山公園

そんな8.6水害に加え、追い打ちをかけるように襲ったのが台風7号と台風13号(ヤンシ―台風)です。台風7号以降の8月下旬は比較的安定した天候が続いていたものの、9月の初めに突如として中心気圧930hPaの大型台風が鹿児島を直撃。これは昭和26年(1951年)に同じく鹿児島に上陸し、全国で死者500名以上の被害をもたらしたルース台風(935hPa)にも匹敵する強さを持った台風でした。
ヤンシー台風は8.6水害を含む長期の水害で既に弱っていた鹿児島に更なる負荷をかけていきます。各地で土砂崩れが発生し、中でも最も被害の大きかったものが、南さつま市の金峰 扇山地区で発生し避難していた人々を襲った土砂崩れでした。
他にも、台風が過ぎて数日経った後に日置市の毘沙門地区で大規模な地滑りが発生し死者が出るなど、多くの爪痕を残していったのがヤンシー台風です。

ヤンシー台風の災害遺構 扇山公園

当時扇山地区の人々は当時の金峰町から避難指示を受けていましたが、彼らは移動の危険性を案じ、その一部の人々(当時の集落内で、2班と呼ばれていた人々)は集落の中で安全だと目星をつけた建屋に集まって共にやり過ごす事にしました。
その建屋が選ばれたのは、2班の中で山から離れたなだらかな地形で今まで崩れた事が無い場所に位置していた為です。
しかし悲劇的な事に、後にその家の裏手の山の表面が約200mほどに渡り崩壊。土砂は彼らが避難していた建屋を直撃し、避難していた20名を呑み込みその全員が死亡しました。

公園として整備された被災地
慰霊碑と誌碑

被災当初、消防団や自衛隊などは懸命な救助と捜索活動を行いました。
しかし残念ながら奇跡は訪れず、多数の死者の出た避難先の建屋跡地は後に公園として整備される事になります。
その公園というのが、扇山集落の一画に位置する扇山公園です。園内にはお地蔵様に慰霊碑観音像、当時12歳で命を落とした畠中 勝幸くんが生前に詠んだ詩である「野原はうたう」の誌碑などが設置されています。
慰霊碑は事故の翌年の同日、当時の村おこし推進会であった金花咲想会により建立されたものです。
下記にその慰霊碑の全文を転写します。

 平成五年九月三日、鹿児島を襲った超大型台風十三号の風水害により金峰町は甚大な損害を被りました。
 なかでも、ここ扇山地区で発生した山津波は二十人もの尊い人命をのみこみ、白川南谷地区でも一人の尊い人命が奪われました。
 この碑文は、生前この地を愛し、この地で育った畠中勝幸君(当時十二歳)が扇山の四季折々の美しい自然をうたった「野原はうたう」と題された詩です。
 この詩に感銘を受けた町内会の賛同者のご協力を得て、犠牲になられた方々のご冥福を祈るとともに二度とこのような災害が起こらないことを祈念して、ここに慰霊碑を建立します。
―平成六年九月三日 金花咲想会一同

慰霊式典等の為に駐車場も併設

この扇山公園では今も消防団らなどによる慰霊式典が行われており、南さつま市の管理のもと近くの道路には入り口を示す看板も設置されています。
園内には複数台駐車可能な駐車場も併設されていて、式典以外においても公園への訪問に自由に利用できます。駐車場と公園との間の段差も、かつての被災地の一部であると思われます。
ただ当地はあくまで慰霊と継承目的の公園であり、当然ながら遊具等はありません。

今も残る土砂崩れの爪痕
治山工事のされた崩落地

公園の裏手では、発生した土砂崩れの崩落地の痕跡を見る事ができました。
道に沿う形で、一部分のみが不自然に堅牢な治山工事がされています。この幅約60mほどの区間がヤンシー台風によって崩れた場所です。
この場所は鹿児島に多い典型的なシラスの地質ではなく、四万十層群というより普遍的な地質をしていました。そのため元来水害には比較的耐性を持ち、住民らの「過去崩れていない」という選定基準を満たしてしまった事で不運にも被害を増大させました。
現在は土砂崩壊防備保護林として鹿児島県が管理しています。

スズ
スズ

……今回の場合、安全だと思った場所に皆で集まってしまった事がかえって被害を増大させてしまったんだね。何か避ける方法はあったのかな?

リスリル
リスリル

当時の目線に立って考えれば、避けることは限りなく難しかっただろう。不運だった、としか言い様が無いかもな。
ただ、それで終わらせてしまうと彼らの死はそれこそ無駄になってしまう。このような事態を避ける為に、あらかじめ選定されたリスクの少ない避難所へ、避難が出来なくなる状態に陥る前の段階で行政が避難指示等を出していくのが重要なんだ。
当然、なるべくスムーズに安全な避難を行うため住民も日々そのルートを知っておく必要があるぞ。特に津波などの災害では、ひとたび様子見や油断をすれば命はなく、一秒毎に生存確率が半分になっていくとまで考えた方がいいだろう

廃屋の多い扇山地区

当時の扇山地区には、のべ50人以上の住民がいたとされます。しかしこのヤンシー台風による被害や、その後も過疎化は進み、2021年時点で住民は僅か6人まで減少しました。
現地には廃屋が散見され、道路を塞ぐ倒木も放置されている等、既に限界集落といっても過言ではない状態になっています。
かつては林業で栄えた扇山集落。災害の爪痕だけが痛々しく残り、盛期の賑やかさはもう見る事は出来ません。

あとがき

今回、8.6水害の陰に隠れ、鹿児島県内では残念ながらあまり知られていない災害遺構を取り上げました。実はこの扇山公園を訪れたのは昨年の1月1日、そう、奇しくも令和6年能登半島地震が発生した日でした。扇山公園からの帰り道、知人の運転する車に備え付けられたテレビで津波警報の報道がされていたのを覚えています。
災害とはいつ起きるか分かりません。分からないからこそ日ごろの備えが重要です。今年、鹿児島は例年よりも早い梅雨入りをしました。水害に備え、今一度避難所や防災グッズの見直しを推奨します。

スズ
スズ

これからの時期、ことあるごとに携帯電話からテレレレレーン♪の土砂災害のエリアメールが届くようになるよね……。
でも命を守る重要な物だから、決して無視してはいけないよ!……それはそれとして辟易する音だけどね……

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