下門隧道

鹿児島市

鹿児島市には、時代と共に生まれ、そして消えていった隧道(トンネル)が複数あります。
今回紹介するのはその中の一つ、かつて鹿児島市の犬迫地区 下門に存在した下門隧道です。
下門隧道は鹿児島市内の隧道としては珍しく、市管理としては最も古い物でありながらつい最近まで現役として活躍していました。しかし令和5年(2023年)頃から開始された市道の改良工事に伴い取り壊され、完全に消失しました。

下門隧道の概要

  • 所在地:鹿児島県鹿児島市 犬迫町 下門
  • 竣工年月:詳細不明。昭和37年(1962年)に一度改修
  • 延長:約40.3m
  • 幅員:詳細不明。1.5車線分程度
  • 現況:切通化により消失
  • 備考:2025年5月現在工事中につき通行不可

下門隧道の歴史

下門隧道は、甲突川沿いの河頭(入佐)地区と犬迫地区を結ぶ道が尾根とぶつかる場所に設けられていました。
前提として、下門隧道自体の存在に追求した史料はあまりなく、今回は地形図等を頼りにその歴史を推察していく形での調査となります。
古い地図を確認してみると、隧道が開通する以前の明治期には隣を流れる犬迫川に沿った道がメインルートとして使用されていたようです。

隧道が出来る以前の川沿いの道。現在は改良されている

下門隧道が地図上に姿を現すのは昭和に入ってから。昭和4年(1932年)頃の地形図には隧道の記載があり、終戦後の航空写真においても下門隧道とその取付道路がはっきりと写っていました。
同時に地形図では従来の犬迫川沿いの道の規格が低い事が示されており、下門隧道はそれに対する新道という形で整備されたように見えます。
この下門隧道経由の新道が開通したのが具体的にいつ頃なのか、また川沿いではなくわざわざ尾根を貫くルートを選定したのかは定かではありません。
が、いくつかの仮定をここでは提唱しておきます。

隧道の開通はいつ頃だった?
1948年3月の下門隧道付近
(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)

まず最初に、隧道の開通がいつ頃であったのかという話です。
開通を昭和37年(1962年)としている資料があるものの、これは改修時のものと見られ精確な開通年月ではありません。他に旧隧道が存在する可能性も探りましたが、現地の地形や状況を見るに改修前後で位置は変わっていないものと考えました。
では具体的な開通時期はいつ頃だったのでしょうか。明確な資料が無く難しいところなのですが、地形図や航空写真からある程度の年代は絞る事ができます。
精査した結果、大凡大正4年(1915年)~昭和4年(1932年)といったところで、大正時代から昭和初期に至る年代に開通したとする結論に至りました。

何のために隧道が整備された?
河頭太鼓橋に言及した看板(甲突川脇)

既に川沿いのより短い並行ルートがあったのにも関わらず、何の為に下門隧道経由の新道が開削されたのでしょうか。
こちらも史料があまりないのですが、理由はいくつか考えられます。
まず下門隧道経由のルートの利点としては、河頭太鼓橋という石橋を経由してそのまま伊敷街道(国道3号線)に合流する事が出来たという事です。
当時、犬迫川沿いに下った場合はそのまま甲突川を渡る事が出来ず、甲突川右岸側を肥後別路(郡山往還)と呼ばれる小道に沿って進む必要がありました。それに対し、下門隧道経由の新道の場合は隧道で尾根を越えた後はその山裾を道なりに進むだけで河頭太鼓橋に至り、そのままより広く新しい幹線道路であった伊敷街道へ合流できました。

リスリル
リスリル

甲突川に架かっていた河頭太鼓橋は、甲突川五大石橋で知られる肥後の名石工、岩永 三五郎が架橋に関わっていた歴史的価値のある石橋だったんだぜ

スズ
スズ

肥後別路の一部として架けられたんだよね!
……あれ、でも前に通った時にそんな橋あったっけ?

リスリル
リスリル

……残念ながら、甲突川五大石橋と同様に8.6水害後の河川改修によって撤去されてしまい今は残っていない。8.6水害時には洪水によってアーチ部がダムのような状態となり、越水の誘因となってしまったんだ

もう一つの理由として、これは全国各地の旧道・新道事情に通じるものですが、基本的に昔の川沿いの道というのは安定性の低い物でした。
地図で見ればわかる通り、犬迫川沿いの従来の道はちょうど犬迫川が狭くなる箇所に設けられており、豪雨時などは通行が難しくなったことは想像に難くありません。
それに対し気候に左右されない安定した道が求められ、結果として下門隧道経由の新道が開削されたのではないかと思います。
同様の理由で隧道経由の新道を開鑿した例は、同じ鹿児島市の吉田地区にも残っています。

その他、校区の変遷や付近の発電所建設の歴史と照らし合わせてみたりしたものの、これといった合致は無く明確な整備理由については不明なままです。
史料のうち伊敷村誌をしっかりと読み込めていない為、確認し成果があれば追記したいと思います。

消失した下門隧道 ~跡地と現役当時の姿~

下門隧道のあった尾根

改修後も50年以上活躍し続けていた下門隧道。市道 下門仲組線の一部として路線バスの経路にも組み込まれていましたが、かねてから寿命、幅員、安全性の面で問題が積もってきていました。
そこで、平成後期に拡幅等を含めた事業が計画されます。しかし、そこから長い間下門隧道に手が入る事はありませんでした。
その背景には、下門隧道の坑口脇の地権者と鹿児島市との間での用地交渉の難航がありました。こういった用地問題は各地に点在し、昨今では同県いちき串木野市においても用地交渉の難航で橋が供用できない事態が発生しています。
状況が動いたのは令和5年(2023年)頃。下門隧道付近の市道 下門仲組線改良工事が開始され、隧道を含む尾根の一部の掘り下げが進められていきました。
そして翌年には隧道自体が完全に消失。代わりに1.5~2車線分の道路幅を持った切通が生まれ、現在もその整備作業が行われています。

下門隧道跡

市道 下門仲組線からは、工事によって失われた下門隧道の跡地を見る事ができます。
舗装が途切れているところから少し先の方にかつての坑口がありました。
その隣には高いシラス壁がありましたが、今回の工事に伴い一緒に吹付の法面となったようです。
跡地に下門隧道跡を示す看板等を設置するような雰囲気は今のところ見られません。他の隧道跡と同様、何の痕跡も残さずに取り壊して終わりにするのであれば、またしても鹿児島市の郷土史への姿勢を疑う事になりそうです。

現役当時の下門隧道の姿
下門隧道 河頭側(2022年撮影)

筆者自身かねてより当隧道については調査しており、今回現役当時の写真が残っていたためここに保存の意を込めて掲載しておきます。
晩年の下門隧道は立派なコンクリート坑門を持つ隧道であり、両側の坑門に扁額が取り付けられていました。
河頭側の坑門上は吹付によって補強されていましたが昔はシラス壁でした。この隧道自体がシラスを貫く形で掘られていたのが分かります。
シラスは掘りやすく一定の強度を持った、トンネルや防空壕には適合性の高い地質です。しかし水への弱さや表面の脆さがネックで、素掘りのままだと坑口付近から徐々に崩れていく事がよくあります。

下門隧道 犬迫側(2022年撮影)

犬迫側の坑口は前述の通りシラス壁の真横にありました。
坑内には電灯も取り付けられ、夏日には取付道路の坂を越えてきた先で冷風に吹かれる自然の冷房地帯としても活躍。ここを吹き抜ける風が大変涼しかったのは今でも明確に思い出せます。
いつしか、ここに隧道があったこと自体を知らない人も増えていくのでしょう。

あとがき

今回、鹿児島市の中で新たに失われた隧道について取り上げました。
実はここは元々現役の隧道として紹介するつもりで色々ちまちまと調査を続けていたのですが、ほんの数年の間に実体自体が失われてしまい面食らった状態です。去年影も形も無くなっているのを見た時はあまりの衝撃に空いた口が塞がらないまま三日三晩を過ごし口内がパサパサになっていまいました。
冗談はさておき、このような土木構造物というのは残念な事に日に日に失われていきます。安全性やコストを考えればそれは仕方のない事なのですが、求められるのは現地保存が無理なのであればせめて史料等に遺していく姿勢です。それが今昔関わらず致命的に欠けていると言わざるを得ません。
先人たちの血と汗の痕跡が、何も遺されず消えてゆくのだけは避けていきたいところです。

リスリル
リスリル

ちなみに下門というのはこの辺りの地名なんだが、昔は下ノ門と呼ばれていたそうだな。
門が付く地名は鹿児島市の各地にあって、多くが薩摩藩による門割制度に由来するものになっているぜ。下ノ門がそれに由来するかは不明だが……

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