鹿児島市には、時代と共に生まれ、そして消えていった隧道(トンネル)が複数あります。
今回紹介するのはその中の一つ、かつて鹿児島市の皆与志地区と川田地区の境、菖蒲谷に存在した菖蒲谷隧道です。
菖蒲谷隧道の概要
- 所在地:鹿児島県鹿児島市 菖蒲谷
- 竣工年月:昭和35年(1960年)
- 延長:25m(※平成16年時点)
- 幅員:5.7m(※平成16年時点)
- 現況:新道開通後、オープンカット化により消滅
- 備考:付近に車の停められる場所はありません。
菖蒲谷隧道の歴史
菖蒲谷隧道は、鹿児島市の皆与志町と川田町との間を結ぶ道路の峠部分にかつて存在した隧道です。現在は並行して新道が開削されており、隧道は後にオープンカット化され消滅しました。
その存在について記した文書は少なく、現地に石碑等も発見されていないため、今日日に至るまで建造の背景や歴史を明確に知ることはできません。
ここでは航空写真を辿っていきその背景を探ってみたいと思います。
1948年 -開通以前の付近の様子

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
戦後の昭和23年(1948年)時点では、まだ菖蒲谷隧道は未開通である事が確認できます。
隧道開通以前、古道は隧道よりも北の耕作地沿いを通っていました。航空写真中の畑が連なって山を越えている場所がそれにあたります。
古道は今なお地形図上に記載があり、山道として残っているようです。
1962年 -開通直後の菖蒲谷隧道

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
菖蒲谷隧道が航空写真上で始めて姿を見せるのは、昭和37年(1962年)からです。
これは国土交通省による、平成16年度道路施設現況調査内に記載のあるシヨウブタニズイドウの竣工年、昭和35年(1960年)と合致します。また、旧版の地形図上でもその姿が確認されるのはこの頃からです。
菖蒲谷隧道を含めた、川田~皆与志間の車道開削工事がこの頃に行われたと考えられます。発見できていないだけで、どこかに当道路の開削記念碑は眠っているのかもしれません。
また上記資料によれば、平成16年(2004年)時点で路面にはコンクリート舗装がされており、壁面はブロック張りの構造であったとされています。
1981年 -工事の始まった新道

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
昭和56年(1981年)に入ると、隧道を経由しない新道の開削が始まったようです。
この新道が現在の道路で、隧道が貫いていた尾根を高い切通で越えています。新道整備の理由は定かではありませんが、純粋に考えるのであれば隧道が往来のボトルネックになっていた為であると考えるのが自然です。
2005年 -旧道となった後も残る隧道

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
新道の開通により菖蒲谷隧道が旧道となった後でも、隧道自体は長らく残っていました。
平成17年(2005年)でもその姿は確認できます。この頃でも特に通行に制限はなく、現在の市道 菖蒲谷支線として静かに活躍していました(※当時から市道認定されていたかは不明)。
峠を越えた川田側に見える住宅地は、鹿児島県の管理する県営住宅として1992年から1997年にかけて造成されたガーデンヒルズこいやまです。
また県営住宅より隧道側の端にある建屋は、金型業を営む株式会社 東郷の本社が移転してきたものです。
2011年 -工場新設と消えた隧道

(出典:国土地理院ウェブサイト
※該当年月航空写真より一部をトリミング加工し利用)
平成23年(2011年)になると、隧道はついに姿を消しました。隧道のあった一帯の山が開かれ、隧道のあった場所にはオープンカットとなった道が写っています。
山を開いた場所に建屋が見えますが、これは前述の株式会社 東郷の工場です。もしかしたらその工場を整備する際に隧道も一緒に切り開かれたのかもしれません。
株式会社 東郷の公式HPの沿革によると、2007年から2009年にかけて第4工場の新設があったとのこと。航空写真に写る建屋こそがその第4工場であると考えられ、その場合隧道もついでなのか偶々なのかは確定しないものの同時期に一緒に消えたと思われます。
現在の菖蒲谷隧道跡地

写真右に映るのは工事中の株式会社 東郷 第五工場
現在、菖蒲谷隧道の跡地は市道 菖蒲谷支線となり道筋や地形以外の痕跡は残されていません。隧道のあった場所はかすかに盛り上がっており、隧道があった当時の起伏を思わせます。
隧道跡の脇には、令和4年(2022年)に完成した株式会社 東郷の第5工場が建っていました。

また、隧道の跡地には当時山だった地形を削り取った痕跡として、モルタル吹付の地形が残っていました。隧道自体の高さは3.7mほどだったようで、自動車の往来として考えるとやはり一定の限界を感じます。

隧道の新道にあたる現在の道路は、写真のような高い切通の底を通ります。
古くはこれらの切通の出来る以前の尾根の上を、別の古道が通っていたようです。道自体は廃道として残されているのか、現道には行き場の見えない坂道が設置されていました。
おわりに
今回は、以前別のブログで取り上げていたものをより深堀り再編したいという事で菖蒲谷隧道を取り上げました。隧道のあった川田地区や皆与志地区というのは筆者にとっても特別な記憶のある場所で、川田の一之宮神社が少年期の旅の印象地であったり、皆与志では昔働いていた母からよくたらちね学園の話を聞いたものです。
この隧道跡もまた、昔存在を知った頃に自転車で訪れた思い出の地です。

この近くには東俣隧道という現役のトンネルもあって、そっちは通学路を確保するために掘られたものなんだよね!でも、通学路に二本のトンネルが掘られたと言われつつも東俣隧道一つしか今は所在がはっきりしないんだ。
菖蒲谷隧道の場合は掘られた年代が違うから、もう一つはどこの隧道を指していたんだろう……?