鳥越隧道(国道10号線)と旧道たち

鹿児島市

北九州の門司と鹿児島市街地を結ぶ東九州の幹線道路、国道10号線
その鹿児島側の最後の難所ともいえる区間が、姶良カルデラの外輪山と錦江湾がせめぎ合う海沿いを通る鳥越~重富間です。
地形的な難所が続くこの区間は、今まで様々な道路計画の舞台となっています。今回はそれらの道路計画の中から鳥越隧道(トンネル)にフォーカスしてご紹介いたします。

鳥越隧道の概要

  • 所在地:鹿児島県鹿児島市 吉野町(稲荷町~磯)
  • 竣工年月:1957年(昭和32年)
  • 延長:367m
  • 幅員:8.5m
  • 現況:現役
  • 備考:時間帯によってはこの一帯かなり渋滞いたします。徒歩での訪問を推奨しますが、トンネル内歩道極めて狭いため十分ご注意ください。

鳥越隧道および旧道たちの歴史

国道10号線の鹿児島への玄関口として、莫大な交通量を誇る鳥越隧道。
この隧道は、吉野方面から東福寺山に伸びる尾根を貫く形で存在しています。現在JRトンネルも並行して貫いているこの尾根の頂部は鳥越と呼ばれており、古くはその名が示す通り鹿児島市街地と磯地区を結ぶ急坂の難所でした。
人々はこの鳥越の地に何世代かに渡る道を築き続け、鳥越隧道は開通している中で最も新しい現役の道路の一部になります。
ここでは一旦鳥越隧道の旧道にあたる道たちからその歴史を辿っていきましょう。

鳥越を峠として越えた急坂 鳥越坂
鳥越坂(磯側)

付近一帯の道路の中で、最も古くから存在が確認され今なお残っているのが鳥越坂という坂道です。
JR 日豊本線 鳥越トンネルの鹿児島市側坑口付近から滝之神浄水場の脇へと登り、そこから異人館のあるあたりに下っていく小径がこれにあたります。開削の時期は定かではありません。
今のような車道が出来る以前から磯地区への往来に利用されていた道で、かなりの急傾斜を持ち通行には体力を要します。
道の先の磯地区には島津家の別邸である仙巌園や、近代化事業の立役者である集成館がありました。

天皇巡幸に併せて開通した海岸線ルート 磯街道
磯街道

凡そ人道用の、それも急坂であった鳥越坂に代わる新道として明治時代に登場したのが磯街道です。
明治5年(1872年)、明治天皇が鹿児島へと巡幸に訪れる事になりました。その際に陛下が集成館一帯の製鉄などの機械局にも関心を持ち、訪問のための新たなアクセス確保を理由に県令によって整備されたのが現在の磯街道になります。
最初は田ノ浦(※現在の祇園之洲付近)から磯までを結ぶに留まりましたが、巡幸が終わった後も道の利用者は多く、そのまま重富まで延伸されることになりました。
それ以前にも磯から重富までは海岸沿いの道はあったものの、かなりの険路で利用者は稀であったとされます。難所が多かったこともあり、現在の国道10号線の前身という主要な街道であった東目筋もわざわざ海岸沿いを避け山手の方へ迂回して通っていました。
やがてこの磯街道は国道10号線の一部に組み込まれていきます。

スズ
スズ

磯街道沿いには、じゃんぼ餅のお店がたくさん並んでいるね!

リスリル
リスリル

じゃんぼ餅自体の発祥は南北朝時代における谷山地区だという説が有力なのは前に話した通りだが、その谷山から島津へと献上されたことで磯地域でもじゃんぼ餅が根付いたとされているぜ。餅という名に恥じないモチャモチャさがウリだな

渋滞解消の為に計画された鳥越隧道
鳥越隧道(稲荷町側)

昭和も中期に入ってくると、従来の磯街道は慢性的な交通渋滞に悩まされました。元々国道10号線の一部として交通量が多い事に加え、磯街道は祇園之洲側と磯側で二度JR(※当時は国鉄)の線路と踏切で平面交差している事が主な原因でした。
その解決策として打ち上げられたのが、かねてより要望もあり政府への陳情も行っていた鳥越隧道の工事でした。鳥越隧道は稲荷町と磯地域とを結ぶ磯街道のショートカットの役割を果たすものです。
昭和30年(1955年)、いよいよ陳情が認められ、鳥越隧道は国道10号鹿児島~重富間の道路舗装と併せての事業として着工されます。

鳥越隧道(内部)

工事はまず底設導坑を掘るところから始まりました。既に開通していた鉄道トンネルに並行する形で、一段高い所へと隧道は掘られることになります。
建設には県内企業である小牧建設が携わり、工事中はズリを外に出すトロッコ軌道のようなものが用いられている事も当時の写真から確認することが出来ます。
その後、無事に開通した鳥越隧道は正式に国道10号線の一部となり、従来の磯街道の鹿児島~磯間は旧道となりました。

鳥越隧道(磯側)。
豪雨災害による復旧・防災工事で坑門上部は無機質な法面となっている

アーチ状の石積みを模した坑門が特徴的な鳥越隧道は、今なお鹿児島の玄関口として機能し続けています。
平成27年(2015年)には、豪雨の影響で磯側の坑門上部の崖が小規模に崩れる事態が発生。設置されていた落石防止柵により事なきを得ましたが、その際に坑門一帯が現在のようなモルタル吹付の法面へと姿を変えました。
また、昭和45年(1970年)には、この鳥越隧道の稲荷町側坑門付近にてダンプカーが県道下の線路へと転落し、鳥越トンネル(※鉄道トンネル)を抜けてきた急行列車 錦江が衝突・脱線。死者2名負傷者30名を出す惨事となりました。

慢性化する交通渋滞 工事の進む鹿児島北バイパス
鹿児島北バイパスの橋台

そんな長い間交通を支えてきた鳥越隧道ですが、将来的にはこの隧道もまた旧道となる事が決まっています。鳥越隧道だけでは増え続ける交通需要に耐えられず、新たに鹿児島北バイパスという新道の事業が進められている為です。
鹿児島北バイパスは鹿児島~重富間の国道10号線の改良工事であり、中でも花倉~鹿児島間では仙巌園裏手へと迂回する長いトンネルと陸橋を新設し道を付け替える計画です。その計画の始まりは約半世紀ほど前からですが、仙厳園や防災面での難しさから度々計画変更を余儀なくされ平成後期にやっと着工されました。
未だ完成の見込みは遠く定かではないこの道路ですが、完成の暁には鳥越隧道の交通量も多少は落ち着くとみられています。

スズ
スズ

山をそのまま登って越えていた鳥越坂から、海沿いを切り開いた磯街道、そして今度は山を貫く鳥越隧道……その先には集大成ともいえる海沿いと山中を駆使したバイパス道路に道の歴史が繋がっていくんだね!

参考資料

1.『鹿児島市政だより』- 鹿児島市
2.『旧記雑録 地誌備考一』 – 鹿児島県史料
3.昭和44年2月 『鹿児島市史Ⅰ』 – 鹿児島市
4.令和4年12月 『トンネル抜けると“地獄”=1970(昭和45)年11月24日■急行列車がダンプに衝突、2人死亡』 – 南日本新聞
5.『一般国道10号鳥越トンネルの災害状況と対策について』 – 国土交通省

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