鹿児島に無数にある道。その中には、古くから重要な幹線道路として使用されてきた道、所謂街道も数多く存在します。鹿児島城下を起点に、出水方面に向かう西目街道・通称出水筋。吉野から東の方へ向かう東目街道・通称高岡筋。そして、南側の山川方面へ向かう道に谷山往還・通称山川路がありました。
山川路は現在でいうところの国道226号線にあたり、鹿児島城下を出ると郡元を経由して谷山に至り、その後は平川・喜入・今和泉などを通り山川に出て他の道に接続していた街道です。ただし細かな道筋は国道226号線とは異なっており、一部旧道と化した旧街道の道筋が残ったままとなっています。
今回の表題である平川~瀬々串間の山川路もまた、今となっては旧道となったルートの一部です。今回はそんな旧道を実際に歩いてきたのでご紹介します。
山川路 平川~瀬々串間の概要
山川路の平川~瀬々串間は海岸沿いを進む国道226号線とは異なり、平川を出ると山の方へ大きく迂回し峠を越えて瀬々串へと結んでいました。
具体的には平川小学校前で烏帽子岳方面へと入り、最福寺のある野屋敷地区を抜けた後に瀬々串へと下っていく道がそれにあたると考えられています。
この区間の山川路がいつ頃開通したのかについては資料が見つけられていませんが、弘化元年(1844年)にはここより南の今和泉付近の山川路が調所広郷(※薩摩藩における藩政改革を進めた家老)によって開削されたとのことで当区間の開削もその頃だと思われます。また、その際の開削は江戸期に開通した谷山筋を基に改良したもので、その事を加味すると弘化元年以前からこの場所に道はあったと考えるのが自然です。
なお、その後明治28年(1895年)頃に入ると現在の海沿いのルートが開通したとされています。

地図を見ると海沿いの方が楽な道に見えるけど、なんで山に迂回していたんだろ?

当時の土木技術目線で考えるとその理由は察する事が出来るぜ。今ほど防災技術や大規模な掘削技術が無かった当時では、海岸が迫った場所に安定した道をつけるのはそう簡単な事じゃなかったはずだ
実際の山川路 平川~瀬々串間の状況
次に、実際に山川路の平川~瀬々串間の旧道が現在どのようになっているのかを見ていきましょう。
今回取り上げるにあたり、旧道と思われる道筋を平川小学校前から瀬々串の宮崎神社付近まで歩いてまいりました。ただしこれが正確なルートという確証はない事はあらかじめご容赦くださいませ。
平川小学校付近~野屋敷

山川路の平川~瀬々串間山ルートの起点は平川小学校付近にあります。国道の側道に入った先、上記写真正面の大型車通行禁止の筋が山川路になります。
実はここより北の箇所に海ノ上地区の旧道とそこから続く円弧状の旧道(山川路)があり、その延長線上にあるのがこの場所です。
また、当時この場所の国道226号線には小さなアーチ石橋が架かっていましたが、付近の国道改良により現在その石橋は消滅しています。

山川路を道なりに進んですぐのところでJR九州の指宿枕崎線と踏切で平面交差しました。この場所で烏帽子岳自然遊歩道(登山ルート)と合流。
このすぐ近くには平川駅があり、鹿児島中央駅からの快速なのはなはこの平川駅までは各駅停車を行います。

道は全線通して坂道となっており、中腹あたりで烏帽子岳自然遊歩道が分岐していきます。
烏帽子岳自然遊歩道は登山ルートと錦江湾公園ルートの二つがある鹿児島市管理の自然遊歩道で、うち登山ルートでは頂上付近にある烏帽子嶽神社への参道を通る山道を楽しむ事が出来ます。
※錦江湾公園ルートは2025年2月現在、豪雨による道路の路盤崩落に伴い通行止め中です

最福寺の付近では、山川路に沿って土壁が露出している箇所があります。
古い地形図で確認すると当時から半ば力業で台地上に向かって道を付けていたようで、これらの土壁の一部はその名残があるかもしれません。

最福寺を過ぎると、今まで辿ってきた市道は県道 谷山知覧線(23号線)へと合流します。
山川路は合流する地点よりも少し手前、写真の箇所で脇道へと分岐していく道です。ここより先は旧街道としての趣を遺す山道区間に入ります。
野屋敷区間(峠部)

市道から脇道に入ると、さっそく道が二手に分岐します。片方はコンクリートの桟橋の設置された道、もう一つは階段を下っていく小径です。
山川路は左の階段ルートを進みます。おそらくですがこの場所は現在の市道の工事か何かを行った際に本来の路盤が損なわれているのではないかと思います。
なお、正面の桟橋を進む山道もまた古道であり、旧街道から分岐して野屋敷の当時の中心部までを結んでいたようです。現在は山川路を迂回するような道の一部になっていました。

階段を下りきると道は小川に衝突します。この場所には聊か身を任せるには不安な丸太橋が架けられていました。
この辺りの山川路は現在も林業作業用の林道として利用されているようで、この丸太橋もそれらの関係者が利用するために設置しているのではないでしょうか。少なくとも橋台の様子などから橋の構造物自体街道当時のものではないように見えます。

川を越えてしばらく歩くと、写真のような石敷の坂が現れました。明らかに人為的な物であり、旧街道時代からのものである可能性はあります。
ちなみに訪問時は若干の雨天だったため、苔むした足場は滑りそうでなかなかひやひやしました。ただ普段から人通りは一定数あるのかそこらの山道と比べてあまり荒れてはいません。

合流地点付近のみやけに広く、それより先は狭い道となる
石敷の坂を越えた峠付近では、野屋敷集落方面から別の道が合流してきます。こちらは県道や先ほど分岐した古道と山川路を結ぶ道で、合流地点付近を除き山川路と同程度の狭い小径になっています。
合流地点付近は道路改良を放棄した痕跡なのかはたまた何か意図があってなのか、やけに広くしっかりとした築堤が築かれていました。

峠を越えて下りに転じると、再度短い石敷区間が現れます。
先ほどの石敷区間と同様の趣で、歴史ある道の佇まいを見せています。
野屋敷~宮崎神社(瀬々串)

峠から続いていた坂を下りきった先で道は砂利道/石敷から現代的なアスファルト舗装へと変わりました。位置的には瀬々串と平川の境界付近にあたります。
旧街道としての面影が強く残る山道区間はここまでになります。

山川路は瀬々串の北側に広がる耕作地沿いを通っていきます。
沿道には古墳時代の遺物が発見された野畑遺跡がポツンと存在していました。遺跡とはいえ現在標柱以外のものは残っていません。

瀬々串の住宅地内に入ると、沿道に番所跡が現れます。
現在荒れ地となっているこの場所には、かつてこの山川路の往来や海上を見張る為の番所跡がありました。交替で見張りを行っていたのは足軽達だったようです。
江戸の後期には既に置かれていたと考えられており、これは山川路(谷山筋)が調所によって改良された頃と重なります。
また、地元の人々がこの道の事を殿様道と呼んでいた旨を言い伝える看板が立っています。

番所跡を後にすると、今度は「瀬々串浦」と書かれた標柱が見つかります。
この辺りは古くから錦江湾を見渡せる景勝地と知られており、薩摩藩による地誌 三国名勝図会にも瀬々串浦として記載されています。
瀬々串、という地名自体が海岸線が櫛の歯状に入り組んでいた事が由来とされています。また、長門本平家物語の中に登場する木入津という場所はこの瀬々串の地を指すと言われているようです。

やがて山川路は瀬々串の中心地へと至ります。ここで久しいJR 指宿枕崎線と再会し、山川路は線路を上踏切で平面交差します。
また、踏切の先では旧街道らしい道幅が極々僅かな区間のみ残されています。
※ただしこの近辺の山川路の詳細なルートははっきりしないため、このルートが正しいという確証はない事に注意ください。

国道226号線とも合流し南下したところに、旧・村社の宮崎神社が鎮座しておられます。
建立当時の詳細は不明ながら、天文16年(1547年)に喜入領の領主であった島津忠俊によって宮崎大明神として再興されその後明治元年(1868年)に宮崎神社と改名されたのが現在の姿です。
当時前述の瀬々串浦が絶景として評価されており、殿様が通行する際にはこの宮崎神社付近に水茶屋を設け休息をとったと言われています。
山川路の平川~瀬々串間はこの宮崎神社で一区切りとなり、この先は知覧へ峠を越えていく街道と海沿いを進む山川路とで二つの街道が分岐していきます。
ひとまず今回の区間の現況報告はここまでとさせていただければと存じます。
おわりに
鹿児島にはかつて数多くの街道が存在し、そのほとんどが現在の国道や県道網に役目を譲っています。ただし旧街道沿いには史跡や当時の交通事情の遺構が残されている事が多くあります。
もし気が向きましたら、近くにある旧街道を歩いてみると新たな発見があるかもしれません。特に山川路はほぼ全区間JR 指宿枕崎線からアクセスしやすい場所にありますので、安全に十分注意してぜひ訪れてみていただければと思います。

ちなみにこの平川~瀬々串間を結ぶ国道・山川路以外のルートとして、県道 谷山知覧線から分岐して指宿まで繋がっている広域農道があるぜ。
アップダウンが楽しい隠れた名ルートになっている。もちろん、農道なのでその点には気を付けて通行する事が必要だけどな!